医療チーム同行記 第4回
2016年2月15日
ー心臓病の子どもを治したいー 首都の母子センター
文・写真 西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)
◆モンゴルは日本の高山並み
地平線から上がったばかりの陽の光がまぶしく差しこんできた。ウランバートル・バヤンゴルホテルの部屋は東向きで、5月2日の朝は太陽に起こされた。今日も晴れたよい天気になるのだろう。そう予感させる一日の始まりだった。ホテルのロビーに集合した午前8時30分、ところが、 なんと雪が玄関の外にちらついているではないか。2時間前にはあんなに晴れていたのに。春のモンゴルは天気が突然変わる、とは聞いていた。その変わり方は日本の平地に比べてめまぐるしい。まるで高山の天候のようだ。そういえば、ここは標高1,300メートル以上ある。日本なら“高原”だ。そのうえウランバートルの緯度は、北海道・宗谷岬より北に位置する。モンゴルの天候は日本の高い山と同じと考えたほうがいいのかもしれない。日本語の旅行案内書には、「5~6月頃 天気が不安定で、吹雪、猛烈な砂嵐、雨混じりの雪の日もあり、1日のうちであたたかくなったり寒くなったりすることがあるので、この時期の旅行はあまりすすめられない」(『地球の歩き方 モンゴル』)とある。このころは、最高気温が20度、最低気温は氷点下になり、1日の寒暖の差が25度以上になることがある。私はダウンジャケットをとりに、急いで部屋に戻った。
◆カテーテル治療班本隊が到着
渡航治療のツアーは、6日目に入った。本隊ともいうべきカテーテル治療班の9人が到着した。ただ、ホテルのチェックインはひどく遅れた。前夜、モンゴル航空MIAT502便は定刻の午後7時ごろチンギス・ハーン空港の上空に達したものの、ウランバートル近郊の上を長い間旋回していたという。風が強くて着陸できなかったのだ。この季節は強い風が長く吹く。そんなとき、運が悪いと1,200キロ離れた北京空港にむかい、緊急着陸することもあるそうだ。3回旋回してダメなときは中国へいくことになっている――という流説も聞いた。この日は、ちょうど気候の変わり目で、北京へいってしまうかどうか際どいところだったようだ。一行がホテルにチェックインしたとき、日付は変わっていた。
翌朝、ホテルのさほど大きくはないロビーは、日本人であふれた。到着したのは、この活動を始動させた羽根田紀幸・HSP理事長(島根大学医学部臨床教授)、檜垣高史医師(愛媛大学教授)、片岡功一医師(自治医科大学とちぎ子ども医療センター)、木村正人医師(東北大学)、内山敬達医師(高槻病院)、矢内俊医師(東邦大学医療センター大森病院)、片山望医師 (島根大学)。それに愛媛大学医学部生の高久保圭二さんと野崎加那子さん。羽根田理事長は、今回のチームの団長だ。ほかに前日バルーンオルトから戻った田村真通医師(秋田赤十字病院)、小澤晃医師(宮城こども病院)、山本英一医師(愛媛県立中央病院)、渡邊達医師(新潟大学)。ウランバートルで準備していた矢野宏さん(カワニシ)、トーヤさん(HSP)。志を同じくする人々が久々に再会した。それぞれにだけわかる挨拶を短く交わし、次々と握手を交わす。気分のよい光景だった。夜には、さらに藤井園子医師(愛媛大学)、藤井智子医師(昭和大学横浜市北部病院)が到着する予定だ。
◆一隊は、再び地方検診へ
この日から、二手に分かれて行動する。カテーテル班本隊は、治療の場となる国立母子保健センター(以下、母子センター)へゆき、明日からの治療本番に備えて様々な準備をする。もう一手は地方検診に向う。今度はウランバートルから東南方向230㌔にあるチョイルという町。1泊2日の予定だ。チョイルには木村医師、内山医師と医学生2人、それに9時間半の旅から戻ったばかりの山本医師と渡邊医師が再び地方検診に向う。通訳のHSPモンゴルのウルカさんとオギさんをいれて8人のクルーだ。数時間前に日本から到着したばかり医師、前日バルーンオルトから戻った医師、かれらは当然のことのように段取りを話しあっている。休息やウランバートルの町見物などは、頭の隅にもないらしい。
チョイルはゴビスンベル県の県都で、人口約8,000人。旧ソ連の軍事拠点で、鉄道の駅がある。ウランバートルから北京へ向かって最初で最後の大きな駅だ。列車に乗ってウランバートルから北京まで行けば1泊2日の行程。モスクワへは5泊6日の長旅となるらしい。チョイルからさらに南下すると、ほどなくゴビ砂漠になる。チョイルでは、すでに草原のなかにところどころゴビ(土漠)があるというが、やはり遊牧の地には違いない。標高はウランバートルとほぼ同じだ。当初、私も当初チョイルへ行く予定だったが、「準備」を見たいと、残留させてもらった。小雪の中、2つの班はホテルをそれぞれ出発した。
◆国立母子センターは母子衛生・医療の中心
カテーテル班のこの日の大きなテーマは、明日からカテーテル治療を予定している患者と初診の患者をエコー装置(心臓超音波検査装置)でチェックすること。もうひとつは、それをもとに、医師全員で患者の現状と見込みを検討する=カンファレンス。ほかにもこまごました準備があって、流れがのみ込めていない私は、ともすれば見るべきものを見失いがちになった。母子センターは、ラマ教の名称ガンダン寺のすぐ北側にあるが、医師たちの眼中には観光地・ガンダン寺はもちろんない。母子センターは産婦人科256床、小児科402床、合わせて658床のモンゴル有数の大きな病院で、このところ毎年10,000人以上の赤ちゃんがここで生まれている。モンゴル全体で1年間の新生児は約60,000人だから、この病院への集中度がわかる。モンゴルでは、意外なことにゲル=自宅での出産は少なく、村の診療所や県の病院での出産がほとんどだ。母子センターには、ウランバートル市内はもちろん、地方からもリスクのある妊婦や病気をもつ赤ちゃんがやってくる。そのようなシステムができあがっている。母子センターは、まさにモンゴルの母子衛生・医療の中心にある医療施設なのだ。母子センターに到着したカテーテル班は、裏口のような小さな入口からぞろぞろと入っていった。メンバーの多くは慣れた足取りで廊下をいく。あたりを見回しているのは初めての参加者。私もまたモンゴルの病院をなんでも感じ取ろうと、きょろきょろと。医師らがまずチェックしたのは、母子センター所有のエコー装置だ。ウインドウズ2000がなかなか立ち上がらない。「ちょっと古いね」などと言ううちに動き出した。「よし、使えそうだ」の声がして、次のチェックへ。
◆最新鋭機が導入された
古い建物から扉をひとつ開けると渡り廊下で、明るい黄色の壁一面にアニメや動物のキャラクターが大きく描いてあった。一気に「小児科」の気分だ。まだ塗料の臭いがかすかに残っていた。渡り廊下の先は、昨年完成したばかりの小児がん病棟だった。ここに最新鋭機を、モンゴル政府が導入したとの情報はとっくに伝えられていて、医師たちに驚く様子はない。心臓血管造影室(以下カテ室)に、真新しい手術台のような血管造影装置が据えられていた。目立つ位置に、SIEMENSと記されていた。ドイツ製の最新型だという。モンゴル政府の力の入れようが感じられる。一部の管にはまだビニールのカバーがかぶったままなのが目に付いた。治療室と映像モニターのある隣室の間には特殊ガラスがはめ込まれ、中の様子を見ることができる。エックス線対応の部屋自体にも高額な予算が投入されていることは明らかだ。
母子センターには、これまでこれらの装置がなかったため、活動の当初は窓に暗幕を張り、ポータブルのレントゲンでただ透視するだけでカテーテル手術を行っていたという。「かなりリスクの高いことをしていた」と羽根田医師は振り返る。その後、国立第三病院にカテ室があることがわかり、そこでカテーテル手術を行ってきた。検診は母子センターで、カテ手術は車で約20分離れた第三病院でと、なにかと不都合があった。15年目の今年からようやく母子センターで、すべて行うことができるようになった。それは、なによりモンゴルの病める子どもたちにとっての朗報だった。
◆カテーテル手術前のエコー検診
ウランバートルと周辺地域の子どもたち、前年から手術予定の子どもを対象にエコー検診が始まった。壁いっぱいにアニメのキャラクターが描かれた一室に、エコー機4台がセットされた。窓のカーテンがひかれ、室内はほの暗い。エコー装置のモニターがくっきりと見える。1台の装置に日本とモンゴルの医師が何人もついた。複数の目で診るというメリットはもちろんある。モンゴルの医師や日本の若い医師にとっては、日本有数の実力派医師と医療の場を共有できるまたとない機会でもある。部屋の外には、順番を待つ数十人の親子がひしめくように待機していた。どの親の表情にも、不安と期待の入り混じった緊張感が読み取れる。モンゴルHSPのメンバーが受けつけ、検診室へ案内する。最初の患者は3歳の女の子だった。小澤医師は、動脈管開存症(PDA)の中の下ぐらいの深刻度と診断した。明日のカテーテル手術候補だという。小澤医師の2番目の患者は10歳の女の子。モニターを見ながら、他の医師らが「ここがちょっと狭くないですか」「PDAの場所じゃない」「PS(肺動脈弁狭窄症)じゃないですか」「いやちがう」などと意見を言い合っていた。あいかわらず私にはさっぱりわからない。そこに、羽根田医師が来て、画面をじっと見る。「これはPSではないです。ほぼノーマル」とズバリ。他の医師らは、なるほどという顔つきに。
檜垣医師の診た女の子は、生後まだ10か月だった。PDAだが、病状と年齢を考えると手術するにはまだ早い。「カテーテル手術は大きくなってしたほうが安全。ウェイティング。ただ、動悸がひどかったら、必ず病院にきてね」と伝えた。檜垣医師が続けてみた2歳の女児は、重度のPDAだった。「かなりシビアだ。カテーテル手術をしても、途中で引き返すかもしれない」。手術の完遂を期せない可能性があるということだ。片岡医師のこの日最初の患者は、心室中隔欠損症(VSD)だった。カテーテル手術の対象ではない。開胸手術が必要な病気だ。「日本なら即手術の病状だけど、こちらでは簡単にはできない。とりあえず生活するには不都合はないでしょう。韓国チームやアメリカチームの治療のチャンスがあって、手術できるといいですね」という判断。
◆遠くからの患者は無碍にできない
ウランバートル首都圏の子どもが主な対象だが、遠方からの受診者も少なくなかった。もうじき4歳になる男の子は、両親に連れられてモンゴル北部フブスグル県の奥地からやってきた。800キロも離れている。軽度の動脈管開存症(PDA)と診断された。「次回11月の渡航の時にもう一度来られるか」と通訳が聞いた。検診で手術が必要と診断されると、次回以降の渡航で手術するのが原則だ。しかし、「来られるどうかわからない」が、その子の親の答えだった。お金と時間がかかる。現金収入が限られている遊牧民にとって、日本人が想像するよりはるかに大きな負担なのだ。それがどれほど大きなものか、日本人には想像しにくい。「遠いな」というつぶやきが聞こえた。羽根田医師の声だった。「こういう人は無碍に帰すわけにはいかないな。今回手術するかしないか、相談だ」。同じ800キロでも日本とは距離と経済の重みがまったくちがうことが、永年の経験でわかるらしい。モンゴル人の感覚にならなくてはわからないことかもしれない。結局この子は今回カテーテル手術することになった。
◆こんな重たい症状はみたことない
この日、42番目に診断を受けた4歳の女の子は、動脈管開存症(PDA)が重度だった。南西部ウブルハンガイの遊牧民で、母親はデールを着ていた。デールは、ウランバートルの街中ではだんだん見かけなくなっているモンゴルの伝統的な着衣だ。汚れていない、あでやかなデールだから、彼女にとっては晴れ着なのだろうか。ウブルハンガイは首都から500キロほど離れている。日本チームが各地で検診するようになって、その評判を知った親たちが、遠路はるばるやってくるようになったのだ。この子の病状について羽根田医師が説明してくれた。「動脈管の開存が6ミリと大きい。日本なら、赤ちゃん時代に手術してしまう。5歳近くまで元気というのは、日本では考えられない」。脇で聞いていた島根大学病院麻酔科の片山医師は「小児科を担当して1年たつけれど、これほど大きな子が、こんなに重たいPDAであるのをみたことがありません」と驚いた。 片山医師は初めての参加だ。
◆今のモンゴルは、40年前の日本のよう
子どもの心臓治療に関して、モンゴルと日本の違いはどのようなものか。「40年前、私(羽根田)は駆け出しの医師だった。そのころ日本の 子どもの心臓手術の死亡例は、今より一桁多かった。今のモンゴルは40年前の日本のようだ。モンゴルの子どもの心臓のリスクは、今の日本の10倍高いということです」と羽根田医師。すでに日本ではめったに見られなくなったような重篤な症例が、残念ながらモンゴルでは数多くみられる。その実情や背景に次々と直面することになった。明日から、医療ツアーの核心であるカテーテル手術が始まる。
(続く)(にしじま・ひろよし)