医療チーム同行記 第3回
2016年2月1日
ー心臓病の子どもを治したいー さまざまな患者
文・写真 西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)
◆心配のない患者も
モンゴル南東部スフバートル県の県都・バローンオルトでの検診は2日間にわたって行われた。草原の彼方からさまざまな患者がやってきた。 こんな患者も珍しくない。「4歳の娘が不整脈で失神したことがあり、そのとき肺炎になった」と。遊牧民の母親の訴えだ。小澤晃医師(宮城県立こども病院)が、この子を心臓超音波検査機(エコー装置)で診察した。「心臓にはなにも問題ない。少なくとも構造上の異常はない。頭の方は診てもらったのかな」。
続いて、ひょろりと背の高い青年が、ベッドが狭そうに横たわった。大柄なわけで19歳である。本来対象外だが、「わざわざ草原の彼方からきたのだから」と、医師たちは拒まない。しばらくプローベ(探触子)をあてていた山本英一医師(愛媛県立中央病院)から「何も悪いところはない。オーケー」と告げられて、納得したような表情に。青年はまもなく徴兵されるという。「軍隊に行っても大丈夫か、知りたい」と、地元の医師に頼み込んだらしい。もしかすると、幼いころ怒りっぽかったのかもしれない。検診に訪れる患者の多くは問題がないか、心疾患があっても軽めだ。
◆親にかわり 近所のおばさんが連れてきた
8歳の女の子にプローベを当てていた小澤医師の口から、なんども「うーむ」がもれた。「とてもおおきな心房中隔欠損症(ASD)だ。ウランバートルの国立第三病院で手術をするように伝えて」と大きな声。ASDは、ある程度大きな場合は自然に治ることはない。HSPモンゴルのバドさんがそのことを伝えた女性は、母親ではなく近所の人だった。親が連れてこようとしないので、見かねて連れてきたという。以前からウランバートルの病院で診てもらうように言われたていた。でも「この子の親は『お金がないから連れていけない』というばかりで・・・」。ダリツレン医師が「私たちも、ウランバートルの病院へ行ったほうがよいと言っていたのです。でも、どうしても行かないのです」と付け加えた。「そういう人が多いんですよ」とバドさん。「地元で面倒をみていって、手術できる機会をさがすしかないな」と小澤医師は静かに話した。
◆医療費は無料、でも実質的な負担は大きい
モンゴルでは12歳以下の医療費は無料だ。ただし、治療や処置に必要な薬や医療器材はおおむね有料。滞在費や旅費も親の負担だ。医療費は無料といっても実際の負担は、遊牧民にとってはとても大きい。この家族の場合、ウランバートルまで往復1100km、旅費だけで平均月収の3、4倍にもなるという。牛や羊を置いて行くことができないことも理由となる。行政はそこまでは面倒をみない。そんな事情で、親が治療に積極的になれないケースが少なくないようだ。仕方のない事情があるとはいえ、子どもにとっては見放されたのも同然の状態がそこここにある。日本チームの力だけでは、どうにもならない現実だ。
◆もっと早く手術できれば…
医療的対処がされず、日本ではめったにない病状になってしまった患者が続いた。22歳の女性が診察台に横たわった。 ほほが赤黒く、強度のチアノーゼであることが、素人目にも推測できた。病院などの階段をひとりでは2階まであがれないという。エコー装置のまわりに医師が集まってきた。「日本なら車いすレベルだ」「しょうがないですね」「あと20年ぐらいがんばれるのじゃないか」と口々に。私にはどういうことかわからないが、相当厳しい状況であることだけは、びりびりと伝わってきた。この女性は心室中隔欠損症(VSD)で、孔(あな)がかなり大きく手術ができない状態らしい。VSDは本来なら2歳前に手術が必要で、日本では1歳まで手術をするのが普通だという。幼児のときにウランバートルの病院で診断されたが、お金がなくて治療を受けられなかったのだという。家族は、町から130kmの草原で遊牧をしている。「薬を飲んで、なるべくじっとしていること。毎月検診を受けること」が指示となった。「それから、決して妊娠しないように」と付け加えた。妊娠すると心臓に大きな負担がかかり、大事に至ることもある。すると、バドさんが「去年、人口流産の手術を受けたそうです」。医師らは顔を見合わせ、言葉がなかった。
病院側からの要請で診た23歳の青年もまた“手遅れ” 状態だった。やはり心室中隔欠損症(VSD)で、アイゼンメンジャー症候群と山本医師は診断した。肺の血圧が高くなり、酸素の少ない静脈血が動脈に流れ込んでチアノーゼがひどくなった状態を同症候群とよぶ。青年は胸が痛み、血を吐いたことがあるという。「手術は絶対できない状態だ。薬はすごく高い。酸素を入れると楽になるが、ウランバートルでできるかな。経過観察します。大事にして30歳、40歳まで生きる人もいる」と山本医師が通訳するよう伝えた。それを聞いたとたん、青年は足早に部屋から出ていった。「そうだ、肉体労働は絶対禁止。突然死する可能性がある。通訳、伝えて!」。バドさんが飛び出して追ったが、まもなく「見失いました」と帰ってきた。青年は走って去ったのだろう。この場から一刻も早く遠くへ行きたかったのだろうか。医者にとって心理的にしんどそうな患者が続いた。
◆カンファレンス
検診が終わった後、日本とモンゴルの全医師が参加するカンファレンス(検討会)があった。個々の患者について検討し、治療方針を決める。「207番の子。去年カテーテル治療をして、経過がとてもよい。HSPチームがこの秋にきたとき、ウランバートルにきてほしい」。「次の子はちょっと心配。治療が必要だ。症状はないので、国立母子保健センターを紹介してあげて」。日本人医師が次々と「今後どうするか」を判断、それを病院の医師が患者に伝えるのだ。
二日間の検診者は252人にのぼった。このうち心室中隔欠損症(VSD)が27人、心房中隔欠損症(ASD)が7人と診断された。肺動脈狭窄症(PS)は5人。動脈管開存症(PDA)は4人だが、いずれも軽く自然治癒が見込まれ、経過観察とされた。この4つの病気以外の心疾患をふくめて継続的に診察が必要とされる子が20人。心臓になんらかの問題があった子は合計63人と全体の4人に1人を占めた。75%は、「問題なし」だった。また、重篤な患者と軽い患者の二極現象がみられ、他の地区に比べて動脈管開存(PDA)と肺動脈弁狭窄症(PS)が比較的少なかった。PDAとPSであれば、次回以降のハートセイビングプロジェクトチーム(HSP)の渡航でカテーテル治療ができる。その候補が少ないということは日本チームが直接助けることができる子が少ないことを意味する。医師たちは「不思議だ」と首をかしげた。バローンオルトは標高1000メートル。ウランバートルより300メートルから400メートル低い。それが関係するのか、ほかになにか原因があるのか、医師の間で話題になった。
◆ゲルで送別の宴
最終日の検診が終了。夕暮れが迫る草原を、車を連ねて走った。幾筋もあるタイヤの跡をたどるのだが、どこが道だかわからず、どこも道のようでもある。草原をひっかいたようなタイヤ跡が痛ましいようにも感じられる。車は遊牧民のゲル(フェルト製の折り畳み式伝統住居)を目指していた。そこで送別の宴が設けられているのだ。医師らにとり、本格的なモンゴル料理はこのツアーで初めてのことだ。病院関係者の知り合い、フレルバートルさんの大きなゲルについたとき、空は地平線の際に美しい紅色を残していた。
円形のゲルの中には、初日に顔を合わせた病院と県厚生省の幹部が顔をそろえて待っていた。「多くの患者さんから、日本の医師に感謝するという声ばかりを聞きました。日本のドクターは全力で頑張ってくれていると思います。心臓病の子どもの将来に道を開いてくださって、ほんとうにありがとうございました・・・」と、ムンフゾル院長が挨拶した。感謝の声が実際にあったにちがいない、と思わせるような挨拶だった。
「トクトイ!」と野太い声で乾杯。このゲルの主、フルバートルさんはデールを着て真ん中に座り、モンゴルのウオッカ「アルヒ」を静かに飲んでいた。真っ黒に日焼けし、深いしわが刻まれた顔は、遊牧民以外のなに者でもなかった。
司馬遼太郎は「どのモンゴル人も風貌や言語動作が鷹揚で、年をとると、たいてい、百騎か二百騎の士卒をひきいるような武将顔になる。…… 風に曝された岩石のようにいかつくて、微笑すると、白く大きな歯がのぞく。ゆったりと質問されるままに答える。ただ答えるつど、微笑する。」(『モンゴル紀行』)と、モンゴル男の雰囲気を描いた。このフルバートルさんも、まさにそのままだった。
◆日本人医師はホテルと病院の往復ばかり
午後7時半ごろになった。外はまだ夕暮れが続いている。モンゴルの夕暮れは長い。冷たい風が強くなってきた。ゲルのそばに山羊と羊の群がいて、馬が3頭つながれていた。モンゴル馬は小型だ。その背に田村真通医師(秋田赤十字病院)と小澤医師が順に乗った。初めての経験だとか。しばし、気分よさそうに揺られて、「いやあ、よかった」。山本医師は山羊の赤ちゃんを捕まえて抱きしめ、「かわいい」を連発した。
HSPの医師のほとんどが、モンゴルに何度きても草原で馬を駆ったり遊牧民の生活に直に触れたりする機会をもたないという。ホテルと病院を往復し、ホテルから飛行場へ直行するばかり。草原の空気を胸いっぱい吸って馬に乗るより、一人でも多くの子どもを治すことのほうがうれしい人ばかりのようだ。そこのところ、草原が好きな私にはまだよくわからない。草原や乗馬も楽しみ、治療と両方させたらいいではないか、せっかくモンゴルまで来たのだから——などと思ってしまう。よくわからないながらも、しかし、なにか高貴なものに触れた気がした。
この夜、医師たちは普通のモンゴルに浸った。「今日の風景と雰囲気は本当のモンゴルだ。これだけできたかいがあった」と田村医師は大感激。ディナーには、モンゴルのミルクうどん、乳色のスープ、サラダなどがでた。春のスイカもうまかった。メインデッシュは山羊の丸焼き。内臓をとりだした腹の中に火で焼いた石をいくつも詰め込んで作る。最高のもてなし料理だ。香ばしい香りをまき散らす肉を肴に、モンゴルウオッカ「アルヒ」を飲む。ほどよく酔ったところで、県厚生省のきれいどころによるモンゴル民謡が披露された。
◆日本の医師が憧れに
盛り上がる宴のゲル、私は隅のほうで2人の女性医師から話を聞いていた。小児科のダリツレンさんは医師16年目。「日本のドクターの知識と技術はすごいと思った。診察の終わった後、カンファレンスを開いて、子どもひとりひとりについて、どうするかをみんなで検討したでしょ。これは、初めての経験だった。私たちモンゴル人医師の意見を聞きながら、診察を進める姿勢も尊敬できた。モンゴルの医師はチームワークが苦手だから、とても参考になった。モンゴル人の子を本当に一生懸命に診てくれることが感じられ、モンゴル人としてすごくうれしかった。小児科医として同じハートをもっていると感じた。同僚と話したことだけど、日本の医師は、診察にどんなに時間がかかっても、患者全員終えるまでやめようとしない。そのことに驚いた。すごく頑張る人たち。私たちももっと頑張らなければならないと考えが変った。私自身、これから小児循環器を勉強しようと決心しました。日本のドクターは憧れです」
◆もっともっと聞きたいことが・・・
循環器科のムンフツェツェグ医師。「エコー機は昨年導入したばかり。私たちにとっては、エコー機による診断は新しい分野で、実はわからないことが多かったのです。エコーの画像をみて、どうやって判断するのか、すごく勉強になった。カンファレンスで、ウランバートルの大きな病院に送るまえに、自分たちで対応できることがたくさんあるのだとわかった。日本のドクターは我慢強く、なにかを必死に見つけようとしていた。いまは元気に見える患者も、もしかすると体のどこかに何か問題があるのではないかと徹底的に探ろうとしているようだった。その姿勢は、私が医師を続けていくうえで大きな力になるとおもう。もっといろいろ聞きたい。もっともっとたくさん時間がほしかった」。2人には驚きと発見が多かったようだ。日本人医師のスピリットは、モンゴルの医師に強烈なインパクトを間違いなく残した。
ゲルのあちらこちらで、話の輪ができ、夜は更けていった。日本チームを代表して、田村医師が「私がモンゴルに来たのは10回目。初めは何回続けられるかわからなかったけれど、続けてきてほんとうによかった。10年間でモンゴル医療事情はずいぶんとよくなったとおもうが、今後もできる限りのことをしていきたい」と挨拶して、深夜に及んだパーティーはお開きとなった。翌日午前8時、病院関係者にお別れの挨拶をして、ウランバートルに向けて出発した。1日かけて同じ道を戻るのだ。
◆「愛」の刺青
朝食に車中でパンを食べたが、昼食はツアー最後の食事とあって豪華だった。道中最大の町チンギス・ハーン市で、レストランの一室を借りてのランチ。といっても、レストランに頼んだのは皿の提供だけだ。持ってきた羊の足つきの大きなブロック肉のロースト、ゆで野菜、ピクルス、酢漬け野菜、自家製パンが借りた皿の上に手際よく並べられ、スーテ・ツァイがカップに注がれた。この4日間で9回の食事はすべて、チームにずっと同行しているサンサルさんが病院の厨房を借りて調理していたのだった。ほとんど病院にこもりっきりの日本人ドクターたちの健康を考え、メニューの多様性と栄養バランスの両立を図ってることが感じられる料理だった。サンサルさんがウランバートルで人気のあるレストラン・VERANDAのコックであることが知られてから、みんなから「シェフ」と呼ばれていた。シェフの首筋には刺青があった。『愛』と漢字一文字。「かっこいいだろう。俺、日本が好きなんだ」と自慢していた。シェフの愛の料理で、ドクターたちは頑張れることができたのかもしれない。胃腸がさほど強くない私もなんとか元気でツアーを終えることができた。シェフを丸抱えで雇ったのは、ランドクルーザーのローラさんだった。往路は乾いていた遠くの丘に、帰路は雪がうっすら積もっていた。
(続く) (にしじま・ひろよし)