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ハートセービングプロジェクト

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医療チーム同行記 第8回

2016年4月15日

ー心臓病の子どもを治したいー 医師はなぜモンゴルへゆく!?

文・写真  西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)

◆447人の子どもの健康を回復、検診5000人超を記録 

モンゴルの草原と大空

モンゴルの草原と大空

ハートセービングプロジェクト(HSP)は、2015年に2回のモンゴル渡航を行って検診・治療をした。ウランバートルの国立母子保健センター(母子センター)で、動脈管開存症(PDA)と肺動脈弁狭窄症(PS)の子ども計43人にカテーテル手術(ほかにカテ検査9人)をした。子どもたちは健康を取り戻し、希望をもって自分の未来を考えられるようになった。エコー装置による検診は、首都ウランバートルのほかスフバートル県など4県で行い、1年間で997件だった。これでHSPはモンゴル国のすべての県で検診したことになり、地方検診は次回から二巡り目に入る。

2001年から続いている渡航治療は2015年に満15年を越し、15年間で、計30回の渡航を行い、のべ328人の医師や協力者が参加した。エコー検診を受けた子ども(一部成人も含む)は、2015年末までに、5278人(件)にものぼった。また、カテーテル手術を受けた子どもは、「500例」後も増えて、537件(カテーテル検査を含む)にのぼった。この5月にはまた医師たちが渡航する。

◆初めてのモンゴル渡航医療

「こんなに長く続けられるとは、あのころは思いもしなかった」 渡航治療15年を振り返り、HSP理事長でほとんどの回で渡航チームの団長を務めてきた羽根田紀幸医師(島根大学医学部臨床教授)は、カテ手術500例記念パーティーでこうスピーチした。渡航治療を続ける最大の理由については、「治った子どもの笑顔をみると、どんなに忙しくてもまた来ようという気になる」と。そして、周囲の支援のほかに、よき仲間に恵まれたと述懐した。羽根田医師のモンゴル渡航は、偶然といってもよいような一つの出会いで始まった。

「お願いがあります。モンゴルにきてくれませんか。きちんとしたカテーテル診断をしてほしいのです」と、島根医科大学(現島根大学医学部)小児科助教授だった羽根田医師に、流ちょうな日本語で話しかけてきたのは、モンゴル人の女性小児科医エンフサイハンさん。それまでほとんど話をしたことがなかった小児科助教授を突然呼び止めた。2000年のことだった。エンフサイハンさんは、モンゴルから医学研修のため同大学にきており、日本の優れた医療技術を日々目の当たりにして、「祖国でも…」との思いを深めていたようだ。羽根田医師が同大付属病院ではカテーテル手術の第一人者であるという情報も得ていただろう。びっくり顔の羽根田医師に、彼女は続けた。「モンゴルの子どもの心臓手術は、めちゃめちゃにひどいのです」と、当時のモンゴルの小児医療の状況をこまごまと説明した。手術で失敗する例が後を絶たない。手遅れの子どもも多い。日本と比較にならないほど遅れているらしい。それに、なぜかモンゴルには先天性心臓病の子どもが多いような印象を受けた。

エンフサイハン医師の熱心な説得に心を動かされた羽根田医師はその場で、モンゴルへ行ってみようと、決心した。「世の中に困っている子どもたちがいて、その話をする人が目の前にいる。これから逃げてはならない」という思いに突き動かされたという。渡航を頭に描きながら、質問をいくつかした。「診断だけでなく、カテーテル手術をしたら、子どもは元気になるよ。カテ室はあるの?機材は?」「なにもありません」が答えだった。

「これはたいへんだ」と思いつつ、羽根田医師は直ちに行動に移った。羽根田医師は国立循環器病センター(現国立循環器病研究センター)病院(大阪)の小児科レジデント1期生である。「5、6期下に、おもしろい人がいたな」と、黒江兼司医師(当時、兵庫県立こども病院)を思い出し、「モンゴルに行かないか」と誘った。“おもしろい人”の答えは、やはり二つ返事でオーケーだった。機材がないのであれば、こちらで調達していくしかない。付き合いのあった医療機器販売「カワニシ」松江支店の矢野宏さんに声をかけると、「手伝いましょう」と軽やかな返事がかえってきた。矢野さんは、カテーテルやデバイスのサンプルを集めに走った。矢野さんと羽根田医師から、その意図をきいたある医療メーカーは機材の一部を無償で提供してくれた。羽根田医師は、地元島根県で募金活動をし、新聞社に訴えたところ記事になった。すると思いがけない額の寄付金があつまった。

1回目の渡航治療は、2001年10月だった。わずか3人のチームだった。ウランバートルの母子センターでエコー検査をし、必要な子どもはカテーテル手術をした。当時母子センターにカテーテル室はなく、手術室の窓にカーテンを引いて行った。画像を記録できる心血管造影装置はなく、ポータブルのエックス線透視装置に一瞬映る画像に頼るしかなかった。

「孔(あな)は3ミリぐらいあったぞ」「じゃあ、これでいこうか」と、現在の機材よりはるかに扱いが難しいタイプのデバイス(コイル)のサイズを判断し、手探りで動脈管開存症(PDA)のカテーテル手術をした。

「正確な判断力が求められ、神経をすり減らすようにしてやった。3例手術したら、へとへとになってしまった」と羽根田医師は振り返る。当時のモンゴル医師たちの医療技術のレベルは今よりかなり低く、この難しい環境のなかでは、とてもこの技術を伝えられるようなことはできず、もっぱら日本の医師が術者となった。ホテルに泊まる資金はなく、エンフサイハンさんの親せきや友人の家に泊まった。このような状況がしばらく続いた。

朝の回診で、カテーテル手術をした子に折鶴をプレゼントする羽根田医師

朝の回診で、カテーテル手術をした子に折鶴をプレゼントする羽根田医師

エコー検査を受ける女の子

エコー検査を受ける女の子

 

 

 

 

 

 

◆同志があつまってきた

帰国すると、羽根田医師は猛然と人を集め始めた。羽根田医師は同センター病院小児科レジデントの2、3期下に“すごい人”がいたのを思い出した。富田英医師である。当時富田医師は同センター小児科でカテーテル治療のチーフだった。「はい、ゆきます」と淡々とした答えだった。ただ、職場が北海道・市立室蘭総合病院に移って参加した。3回目(2002年12月)の渡航からだった。

翌年、羽根田医師は、大阪市であった小児循循環器学会近畿・中四国地方会でモンゴルでの活動を報告した。部屋をでるとき追いかけてきた若い医師がいた。「次に行くとき、ぜひ連れて行ってください」愛媛大学医学部講師だった檜垣高史医師(現同大教授)が目を輝かせてそこにいた。

さいたま市での日本Pediatoric Interventional Cardiology学会(JPIC)=先天性心疾患(生まれつきの心臓病)や川崎病に対するカテーテル治療の学会=で活動報告をしたときには、高知医療センターの片岡功一医師(現・自治医大とちぎ子ども医療センター)が、その場で「参加させてください」と加わってきた。

当時、東京・清瀬小児病院に勤務していた上田秀明医師(神奈川県立こども医療センター)は、わざわざ羽根田医師を、島根医科大学の病院まで訪ねてきたという。木村正人医師(東北大学)は、岩手医科大学で開かれた講演会で、檜垣医師の熱い話をきいて参加した。輪が二重三重に広がり始めた。

「この人は来るかもしれない」と、羽根田医師が直感した例もあった。当時秋田大学付属病院の講師だった田村真通医師(秋田赤十字病院)が、小児循環器学会で行った地元でのカテーテル治療の報告だった。羽根田医師は電話をした。「参加しませんか」との誘いに、返すことばで「ぜひ、お願いします」だった。大学の上の人になにも言わずに決めていいのかなと、羽根田医師はその即答ぶりに驚いたのを覚えているという。田村医師はすでに活動を知っていたのだった。同じような臭いをもつ人をかぎ分ける感度の高い嗅覚を、羽根田医師はもっているらしい。こうして、志を同じくする医師が続々と集まってきた。“同志”という言葉が、現代においてこれほどピュアーにフィットする人たちもいないように思われるのである。

カテ手術500例目の子と富田医師

カテ手術500例目の子と富田医師

カテ手術成功左から、片岡医師、富田医師、檜垣医師、バヤルマー医師

カテ手術成功左から、片岡医師、富田医師、檜垣医師、バヤルマー医師

カテ手術を待つ男の子

カテ手術を待つ男の子

 

 

 

 

 

 

 

◆なぜモンゴルへゆくのか

日本の医師がモンゴルへゆく理由を、私は知りたくなった。数人の医師にインタビューを試みた。

檜垣医師は「羽根田先生の講演を聞いて、どうしてもゆきたくなった。講演の終わったあとに、『私も行きたい』とお願いしたが、じつはその時、どうしてそう言ってしまったのか、今でもわからない。その後、活動を継続している理由には、仲間がすばらしいことがある。自分の医療技術は同じ大学にいては、もっと広い世界ではどのぐらいのレベルだかわからないが、このチームで活動すると、それがわかるのも魅力だ」と説明してくれた。

片岡医師。「羽根田先生の報告を聞く前から、活動を知っていた。当初は、医者と患者の関係がダイレクトであるところに惹かれた。モンゴル行はなかなか実現できず、病院を転勤したら、必ず行こうと決めていた。そして、転勤の際『私は毎年モンゴルに行きます』と“宣言”した。今は、必要とされているから行くのです」。

◆忘れかけた医療の原点がそこにある 

田村医師の話は、多くの参加医師の気持ちを代弁していると思われる。で、少し長く語ってもらう。「それまで一緒に飲んだこともない羽根田先生から電話をもらったとき、望外の喜びを感じた。すごいことをしている人がいる、と知っていたから。興味がなければ、そのことのすごさはわからない。自分の専門分野にこんな人がいたんだ、という気持ちがあって、いつかモンゴルへ行きたいと思っていた。

それで、2005年から参加し、今回で11年10回目。モンゴルにきてみて、“いいところ”だと思った。もちろん異文化ではあるが、人と風土になにか共鳴するものを感じて、初めから私の心身にフィットした。モンゴルが「遅れているから不幸だ」と思ったことなどなかった。休暇を目いっぱいとってくるから、帰れば翌日から仕事。観光する時間などもったいない。地方検診の行き帰りが遊び。それでオーケー。

ちょっとまじめな言い方をすれば、忘れかけた医療の原点を思い出させられた。限られた道具を使い、それで患者がよくなると患者は喜び、医者はうれしい。そういうことのために医者をしているのだなと、すぐに明瞭な形でわかる。医者も患者も頑張って、ともにハッピーになる。その経験が楽しく、次の年もまた行こうと思う。

この仲間は、なにか妙に安心できるものを感じさせる人ばかり。これはいいなあ、とも思っている。羽根田先生が作ったチームだ。私は地方の病院にいるので、いろいろな医師に出会うチャンスは限られている。この渡航ツアーは、刺激になり励みになる。医療上の相談をする相手もできた。ただ、ふつうでもとりにくい休暇を無理にとって、モンゴル行に使ってしまうので、職場の仲間や家族にはつらい思いをさせている」

エコー検査をする片岡医師

エコー検査をする片岡医師

聴診する田村医師

聴診する田村医師

聴診する田村医師

同左

診察をうける女の子

診察をうける女の子

手動バッグで人工呼吸をする片山望医師

手動バッグで人工呼吸をする片山望医師

 カテーテル手術の現場では裏方ともいえる麻酔科医。初参加の片山望医師(島根大学)は「前回参加した職場の先輩から、渡航治療の話を聞いていていきたくなった。麻酔器の電源が入らなかったり、日本とは違う筋弛緩剤をつかっていたりと、予想外のことがたくさんあった。藤井園子先生や母子センターのドーヤ先生がリードしてくれたこともあり、頑張ることができた。なにより小児循環器の先生方のパワーに押された。本当熱意をもってやっているなと。普段、麻酔科医は患者とあまりかかわりを持たないが、今回は治った患者の親子から直接感謝の気持ちをいただき、とても感激した。麻酔科医としても少しでもモンゴルの子どもたちの健康回復に役立てば、うれしい」と話した。

藤井智子医師(昭和大学横浜市北部病院)。「同じ病院の富田教授から話を聞いていて、ずっと行きたいと思っていた。でも、なかなか平日に休みがとれず、今回ゴールデンウイークと重なったので、ようやく来ることができた。医療技術を持っている者が、モンゴルに行って自分が施行するのは比較的簡単なことだ。でも自分で治療することだけを目的にせず、医療技術を伝えて定着させることをも目的にし、それを可能にしているHSPの活動に感動している。日本の医師と、技術を受け取るモンゴル医師の意思の強さを感じた」

HSP10年目の節目の年から参加している藤井園子医師(愛媛大学)は「500例を超えた。感慨深いものがある。麻酔方法は回を重ねるごとに徐々に変化してきたが、今回の渡航でドーヤ先生と一緒に仕事ができたことで、この先に見通しがたった。麻酔に関しての技術移転が見えてきたように思う」と将来展望を語る。

やがて医療の前線にでる医学部生。愛媛大学医学部生の川久保圭二さんと野崎加那子さんは終始、エコー検診やカテーテル手術の最前線にいた。ツアー終期には、ベテラン医師についてエコー器も操作した。専門用語の説明に、時折うなずきながら。

「先生方の説明は、じつは半分ぐらいしかわからなかった。聴診で聞く音は、それが何を示しているのか、まだ判断できない。これだけ次々と患者を診られるのは、ものすごく勉強になっている。自分でできるように早く成長したい」

子どもの様子を見ながら呼吸バッグを押す藤井智子医師

子どもの様子を見ながら呼吸バッグを押す藤井智子医師

カテ手術の準備をする藤井園子医師

カテ手術の準備をする藤井園子医師

檜垣医師の動きをみる野崎さん、川久保さん=左から

檜垣医師の動きをみる野崎さん、川久保さん=左から

 

 

 

 

◆宇佐美理事の場合

活動は15年。「NPO法人ハートセービングプロジェクト(HSP)」という名は、2008年からだ。その年、事務局が、羽根田医師の地元、島根・出雲から現在の東京・世田谷に移された。理事のひとり宇佐美博幸さんの事務所だ。宇佐美さんはプロ写真家で、写真事務所を経営する。ここに所属するカメラマンたちはHSPの活動に共鳴し、面倒な交渉や事務的な手続きを一切引き受けるようになった。もちろんボランティアとしての活動だ。ここを拠点とするようになって、活動は大きく広がり、メンバーの医師たちは医療関係の問題に専念できるようになった。昨年4月には、念願の「認定NPO法人」の認可がおり、寄付をしてくれる人に税控除がされるようになった。ただ、その分また事務処理が多くなり、宇佐美写真事務所のスタッフはますます欠かせない存在になっている。

宇佐美理事がモンゴルとかかわりだしたのは、HSPが発足するよりずっと前の1980年台にさかのぼる。1990年、モンゴルの草原へ写真取材に行く途中で、作家の司馬遼太郎氏と北京空港で偶然出会い、交流が生まれた。司馬遼太郎記念財団が出している旬刊誌『遼』2014年春号に、宇佐美理事が寄せたエッセイ「バッグの中の大切な葉書」が掲載されている。そこに、モンゴルとののっぴきならない縁が語られている。

司馬さんはその死の数年前から、1939年関東軍が引き起こしたソ連・モンゴル軍との局地戦「ノモンハン事件」を書こうと、膨大な資料を集めていたが、すでに小説としては書かないことを決断していた。「あれほど無駄に若い人たちの命がなくなった争いはなかった」と。ちょうどそのころ、司馬さんと宇佐美理事との間で、ノモンハン事件が話題になった。

「『宇佐美君が代わりに行ってきてください』と。本気とも冗談ともわからない言いぶりではあったが、『行ってみたい』『代わりに…』が頭でいつまでも渦巻いた。」(『遼』)それから5年後、宇佐美理事はノモンハンに取材を実行する。そのとき、ひとりのモンゴル青年が通訳として同行した。ソードエルデムという名だった。

まもなく司馬さんが亡くなり、NHK大阪放送局が追悼番組を制作することになった。モンゴル取材は、宇佐美理事が担当することになり、ソードエルデムさんを現地コーディネーターとして採用した。ところが、かれは取材地に向かう途中で交通事故にあい、亡くなってしまう。まだ、24歳だった。

「『この番組の仕事を取ってこなければ、かれは死なずにすんだ』という悔恨と、親御さんである現駐日モンゴル大使フレルバータル氏にすまないという思いが、今も私の心に重くのしかかっている。そんな思いが、ますます私をモンゴルにのめり込ませた。」(『遼』)

亡くなったソードエルデムさんは、モンゴルの心臓病の子どもたちを救うことにも関心をもっていた。また馬頭琴がすきで、演奏グループ「アジナイホール」のコーディネーターをもしていた。宇佐美理事は、アジナホールの日本公演のプロモートを引きうけた。やがて音楽公演「法隆寺音舞台」(2001年)にも招待されるグループだが、詳しくは別の機会にゆずる。問題は、演奏家のひとりアマルトブシンさんの長女が先天性心臓病をもっていたことだった。その子を救うため、宇佐美理事は羽根田医師と接触し、やがて事務局を引き継ぐことになったのだ。“負い目”と責任感が、もともとのモンゴル好きをしばり、いまやHSPを支える最大の柱となっている。

司馬遼太郎に、「心が澄むようですね」と評された草原の飛行機の写真作品=©宇佐美博幸

司馬遼太郎に、「心が澄むようですね」と評された草原の飛行機の写真作品=©宇佐美博幸

 

 

 

 

 

 

◆やさしさの根っこの感情がある!?

司馬遼太郎の異色の作品に『二十一世紀に生きる君たちへ』という短編がある。小学校の教科書のために、書き下ろしたエッセイである。その核心は次の文言にあろう。

「『いたわり』『他人の痛みを感じること』『やさしさ』 みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。この根っこの感情が、自分の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。」

HSPにかかわる人には、この“根っこの感情”が、しっかりと心に形作られている。読み返すほどに、そのように思われてならないのである。

◆まだまだ足りない資金 個人寄付が頼り

HSPの1回の渡航費は、700万円から800万円。支出のうち、ウランバートルでの宿泊費は、基本的にバヤンゴルホテルの “大口の寄付”でまかなわれる。ただ、上限がある。地方検診の費用は、基本的にHSPが捻出している。医療器材の購入費が安くない。子どもをカテーテル手術すると、カテーテルやデバイスひとり分で10万円以上、30人で300万円以上になる。今までのところ、安くあがる現地調達やメーカーの寄付に頼るところが大きい。モンゴル側が「国からカテーテル手術の機械は買ってもらったけれど、患者に使うデバイスを買うのが大きな負担」というのは、この高額な医療器材のことを指しているのだ。

収入は、100%寄付によってまかなわれている。バヤンゴルホテルの他は大部分が個人からの寄付だ。ひとり1万円、2万円というレベルの浄財だ。資金調達には、毎回薄氷を踏む思いをしているという。大相撲のモンゴル出身の力士の中には、横綱日馬富士や朝赤龍関など活動に理解と協力をしている人がいる。医師たちは渡航費用に自腹を切っている。また、HSPモンゴリア(Zurkh Khamagaalakh Tusul=ズルフ ハマガーラフ トゥスル=心臓を救うプロジェクト)の協力もなくてはならない。現地各病院、機関、ホテルとの交渉、ボランティアのとりまとめ、なによりメンバーの通訳としての直接参加。モンゴルの人たちからの寄付の受付、スポンサーの募集など活動は大きく重たい。日本とモンゴルの善意は次第に増えている。しかし、それでもまだ十分な活動には、資金は足りないと言わざるをないようだ。司馬さんのいう“根っこの感情”をもった人々の理解と共感が、もっと強く、もっと深く必要とされている。

子どもを治してくれたお礼にと、ディナーに招待された

子どもを治してくれたお礼にと、ディナーに招待された

診察を待つ子どもと親

診察を待つ子どもと親

 

 

 

 

 

 

次回は最終回となる。番外編として、変わりゆくモンゴルの現状を紹介したい。

(つづく)(にしじま・ひろよし)