医療チーム同行記 第1回
2015年12月26日
ー心臓病の子どもを治したいーウランバートルから地方検診へ
文・写真 西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)
◆モンゴル高原はラクダ色
モンゴル航空MIAT502便は次第に高度を落とした。地平線まで広がる大地となだらかな起伏の連続が窓から見えだした。4月下旬のまもなく午後8時、太陽はようやく沈もうとしていた。モンゴル高原は濃いラクダ色におおわれていた。以前訪れた時期は8月と7月だったから、目の底には緑の草原があり、見えている風景はまるで別の世界のように思われた。高原が「草の海」となるには、あと1か月は必要なのであった。
やがて、飛行機の車輪が滑走路に接する衝撃が尻にきた。私は同行者の寝顔越しに、まだ窓にへばりついている。翼が上下二段ある小型飛行機が2機、10年前と同じようにエプロンに並んでいるのを見つけた。複葉機は旧ソ連製の少人数用旅客機。ここはやはりモンゴルなのだと、なにか安堵のようなものを感じた。 過去2回は草原ただ中のゲルに逗留し、日がな一日馬に乗り草の海のなかにいた。いつまでもつづく壮大で華麗な夕焼けが心に染み込むような旅だった。私はモンゴルが好きになってしまっている。 今回は、先天性心臓疾患のある子どもを治療する国際ボランティア団体「ハートセービングプロジェクト(HSP)」(認定NPO法人、羽根田紀幸理事長)の医師グループに2週間密着する。羽根田医師らが始めた渡航治療は、すでに15年間続けられている。次第に参加する医師が増え、それにしたがって治療件数も増え続けている。 モンゴル好きの私は、日本の医師たちがどうして草の海の国へ行くのか、それが15年も続いているのはなぜかを知りたくなり、同行させてもらうことにしたのだ。
◆チンギス・ハーン空港
2015年4月27日、成田から約5時間のフライトで、HSPの検診班第一陣5人はウランバートル、チンギス・ハーン空港に到着した。この時期、モンゴルと日本に時差はない。小澤晃医師(宮城県立こども病院循環器科部長)、山本英一医師(愛媛県立中央病院小児科主任部長)、医療機器の調達を担当している矢野宏さん(カワニシ)、HSP事務局のアルタントーヤ(トーヤ)さん、それに新聞社を定年退職した私。 空港にはHSPモンゴリアの3人が出迎えてくれた。トーヤの妹でモンゴル航空に勤めるオユントーヤ(オユンナ)さん、通訳のブムデルゲルバドラル(バド)さんとオトゴンバータル(オギー)さんだ。 手持ちの簡易寒暖計では20度を少し超えている。成田では24度だった。予想よりかなり暖かい。Tシャツ姿の人さえいる。少し重装備し過ぎたかとつぶやくと、「いや、寒くなりますよ」と言う声が。今回で23回目という矢野さんだった。 各人の手荷物のほかに医療機器があり、5人分の限度重量を17キロオーバーしていた。多めの荷物を2台の車に積んで都心に向った。空港からの道は高速道路のように改修されていて快適だった。かつては、両側すでに草原の趣があった。「こんなところに家がいっぱいあったかな」と誰かがいう。昨今のモンゴルでは、わずか1年で随分と変化があるらしい。
◆まずはHSPモンゴリア事務所へ
ホテルチェックインの前に向かったのは、HSPモンゴリアの事務所だった。古びてはいるがしっかりした建物の3階で、事務局のメンバーが紹介された。アマルジャルガル(アマラ)さんとソロさん。そこに夕食の弁当が配られた。何回も使えそうな合成樹脂製の箱に入っている。最近のモンゴルの弁当は立派になったと思ったら、市販の弁当ではなく、トーヤさんのお姉さんの手作りだった。丁寧な作りに納得。姉妹3人、それぞれができることを生かして、プロジェクトに関わっているのだ。 中身はマヨネーズのようなものをはさんだチキンカツと野菜サラダ。モンゴルの家庭料理は日本と似ていた――もかん違いで、日本人むきに工夫してくれていたのだった。これから何度もお姉さんの弁当のお世話になるとは、その時は知らなかった。すっかり空っぽになっている胃袋に、スーテツァイ(モンゴルのミルクティー)の塩味が気持ちよかった。 バヤンゴルホテルにチェックインしたのは、午後10時半をまわっていた。ウランバートルの老舗ホテルに、手弁当で参加する医師団が泊まれるのは、経営者がHSPに活動に共鳴してくれているからだ。 日付が変わってまもなく、第2陣がソウル経由の便で到着した。田村真通医師(秋田日赤病院第一小児科部長)と渡辺達医師(新潟大学付属病院医師)の2人だ。数日置いて順次、日本各地からモンゴルに集結してくる。5月8日まで、ベテランと若手とりまぜて医師が計14人、医大生2人が参加することになる。
◆カテーテル手術500例の年
モンゴル渡航治療は、2001年に始められた。当時島根医科大学助教授だった羽根田HSP理事長と黒江兼司医師(当時兵庫県立こども病院循環器科部長)、矢野さんのわずか3人だった。そのいきさつについては、ひとつの物語があるが、それは別の機会に譲ることとする。以来23回の渡航を行い、延べ約300人の医師が、4,000件以上の心臓超音波検査装置(エコー装置)による検診を行い、489件の心臓カテーテル手術を実施してきた。検診はウランバートルだけでなく、各地にチームがでかけていった。モンゴルには21の県があり、これまでに18県で実施している。今回2県を訪れる計画だから、次回の渡航治療で全県を巡る見込みだ(9月23日からの渡航治療で、予定どおり全県実施した)。カテーテル手術はあと11件で500件。今回の渡航で大台を記録するのは確実だ。2015年は、HSPにとって大きな節目の年になるのである。 様々な交渉事を担当するトーヤさんを残し、検診班は地方に向う。モンゴルの南東端のスフバートル県のバルーンウルト(バローンオルト)が目的地。ウランバートルから東へ約560㌔の距離にある県都だ。むろん高速道路や鉄道はない。 翌朝9時、トヨタのランドクルーザーと韓国製大型ワゴン車がホテルの前に並んだ。ワゴン車には日本人2人、通訳2人、モンゴル国立母子保健センターの男性医師バドウンドラハさん、それになぜかモンゴルのテレビ局からプロデューサーとカメラマンの2人、小柄だがマッチョな運転手の計9人。ランクルには夜更けに到着した田村医師のほか小澤、山本医師。それに腰痛持ちということで私が割り振られた。天気は快晴。気持ちのよい風に乗って出発した。
◆恩返しがしたくて スポンサーに
ランドクルザーの運転者を紹介しなくてはならない。ボローロさんという女性だ。ローラと呼んでほしいという。通訳が乗っていないランクルの車内では、会話は英語でするしかない。田村医師がさかんにコミュニケーションをとり、ローラさんはバルーンウルト検診の費用を負担してくれるスポンサーであることがわかってきた。バルーンウルトで育ったローラさんは、医師となってウランバートルの病院で救急医療を2年間経験したのち、法律を学びなおして実業界に転身、鉱山関係の事業でまずまずの成功をおさめた。起伏にとんだ積極的な半生の人であることもわかった。結婚して2児に恵まれたが、長女のハットンガルワルトちゃんは先天性の心臓病だった。その病気、肺動脈弁狭窄(PS)を、バルーンを使ったカテーテル施術で治してくれたのが、HSPの医療チームだった。 「手術が終わってから、娘と家の3階まで上がる競争をしたの。そしたら一気に上れた。息もきれない。信じられなかったわ。思わず娘を抱きしめて泣きました。それまで病気のことばかり考え、娘の将来を考えることができなかった。けれどこの日から娘の将来を考えられるようになったのです。だから、娘とおなじ病気で苦しんでいる子を一人でも助けてあげたい。私、恩返しがしたいのです」と真剣なまなざしを投げかけてきた。 HSPがバルーンウルトで検診すると知ったので、事業のために長逗留していたオーストラリア・メルボルンからかけ戻り、地方検診にかかわる一切の費用の負担を申し出た。自らもハンドルを握り、医師たち(私も大きな顔をして乗ってしまったが)を送迎したいのだという。その強い思いを、車中の医師たちは静かに受け止めている様子だった。
◆I love step. I love Mongolia.
ローラさんは慎重かつ飛ばす運転で東へと走った。モンゴルでは冬に氷点下30度以下になることはめずらしくない。道路に小さな亀裂があると水分が入って凍り、亀裂は大きな穴になってしまう。でこぼこのない道にみえても、突然大穴があいている。そこを目ざとく見つけて減速し、よけて通る。高級車も左右に揺れ、上下に弾む。補修されていない部分を通るときは、乗っている者は姿勢の準備をし、どこかにつかまっていなくてはならない。
モンゴルではめずらしい広い河原をもつ大きな川、ヘルレン川にさしかかったときのことだ。ローラさんは長い橋の真ん中で車を止めた。さほど水量の多くない流れのま上であった。それから、助手席の私にチョコレートの包装をむいてほしいと言う。ひとつ渡すと、窓を開けて、川に向って投げた。チョコレートは水面に落ちていった。不思議顔の私たちに、「チョコレートを、川とシェアしたのよ」と説明し、二つ目のチョコレートは彼女自身が食べた。それから我々に「どうぞ」と。なるほど。遊牧民には乾杯の前に、酒に指を浸して天と地に向けて弾く習慣があった。あれだなと合点がいった。町に住むモンゴル人でも3、4代さかのぼれば、先祖はたいがい遊牧民。欧米風の装いでさっそうとランクルを飛ばし、ビジネスの最前線にあるモンゴル女性が古風な習慣を守っていることに、あるいは娘の幸運に感謝しての行動に、この国の“今”を感じた。 バルーンウルトの手前200㌔ほどは改修したばかりの道路だった。どこまでも真っ直ぐな街道を制限速度がないかのごときスピードでいった。すべるように快適だった。滑走路にもなりそうな道だった。周囲をみれば、人工的な工作物は道路のほかは一切見えない。ここで注意しなくてはならないのはパトカーや道の穴ではなく、馬や羊の群れである。何十頭もの山羊や羊がのったりのったりと横断していることがあったし、どういうわけか道路の真ん中で動こうとも、こちらを見ようともしない牛がいて、車はときに止まった。日本とはどこか逆転しているような状況をみんなおもしろがって、シャッターを押した。 ドライブが快適なるにつれ、ローラさんは一人語りをつづけた。
「草原はもう少したつと、それはきれいな緑になるの。I love step. I love Mongolia. 私は草原が好き。モンゴルが好き。馬に乗るのが大好き。スフバートル県はとくに緑が濃くて、モンゴルで一番いい馬が育つのよ」 日本人から見れば、草原はどこも同じようだが、モンゴル人にとっては違いが大きい。故郷を想う気持ちがひときわ強い人たちであるらしい。 司馬遼太郎さんは『モンゴル紀行 街道をゆく5』で、「モンゴル人にとって故郷というイメージは、どんなに悲しく、どれほど心を慄わせ、どれほどはげしいよろこびを心に与えるものか、私はそれをうまく伝えられないと、彼女はいうのである。」と書いている。彼女とは、ツェベックマさんというモンゴル人の女性だ。 司馬さんは「われわれはどこを向いてもみな同じような景色に見えてしまうが…」と私と同じように感じていたらしい。続いて、「モンゴル人はこの雄大な天と地の一角をそれぞれが切りとり、これが自分の故郷だというふうに、単に形象であるという以上の、遥かな詩情と豊かな思想をそれに籠める。」とモンゴル人の感性を表現している。 ローラさんのおしゃべりや自然とシェアする習慣を間近に見て、司馬さんの見方にうなずく。ただし、帰国後のことではある。
◆バルーンウルト到着 まずは病院へ
到着したのは午後6時半ごろになった。まだ日は十分に高い。9時間30分の長旅だったが、目に入るものが新鮮なこともあり、退屈だとは誰もいわなかった、と思う。それどころか「こんな大草原を走っただけで、来たかいがあった」と小澤医師は満足そうだ。これまではウランバートルでのカテーテル手術ばかりしてきた。6度目のモンゴルにして初めて検診の“旅”にでたのだった。草原のゲルで幾晩か過ごしたことのある私には、欲の少ない言葉にも思われた。
町の人口は19,000人。見たところ高い建物と信号機は見当たらない。私たちの車はホテルの前を素通りして、検診の現場となるバルーンウルト総合病院(250床)へ。病院の幹部、担当医、それに県厚生省のトップが、勤務時間が過ぎても待ち構えていた。問診とエコー検診の部屋や機材を確認したあと、地元の医療状況の説明をうけた。県の人口は56,000人。18か所の村の診療所で心臓が悪いと診断された子どもたち200人がリストアップされている。350㌔も離れた草原からやってくる子どももいるとのことだった。いよいよ明日の朝から検診が始まる。 (続く) (にしじま・ひろよし)