医療チーム同行記 第2回
2016年1月15日
ー心臓病の子どもを治したいー バルーンオルトの検診
文・写真 西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)
◆“ぜいたく” ホテル
2015年4月28日の夜更け、ハートセービングプロジェクト(HSP) 検診チームは、スフバートル県・バルーンオルトのホテルにチェックインした。宿は、町一番の「タンサグホテル」。ウランバートルから9時間半のドライブ、続いて地元病院関係者と顔合わせ、機材チェックをした後だった。ともかく旅の垢を落そうとしたら、トイレとシャワースペースを区切るカーテンのパイプがガンと大きな音をたてて落ちた。同室の小澤晃医師 (宮城県立こども病院)が直そうと試みたが、「これは無理ですよ」。 司馬遼太郎『街道をゆく モンゴル紀行』の一節が思いおこされた。旧ソ連・ハバロフスクのホテルでのこと。便器の水がでない。浴槽 の湯も水もほんのすこし・・・。「家内が苦情を言いにゆこうとしたが、私は無駄だろうと思って、とめた」ーー。 時代が40年も違う。だいいち国が違う。こんな連想は現代のモンゴル国に失礼だろう。でも、私たちは司馬夫婦と同じ選択をした。「苦情を言っても無駄であろう」と。出発前に、「シャワーは2日に1回でればラッキー」と予告されていたから。ぬるい湯がちょろちょろとでたときは、むしろほっとした。床にあぐらをかいて全身を洗った。ホテルの名前・タンサグとは“ぜいたく”という意味らしい。草原の民は、湯のシャワーを浴びることはめったにない。ともかく温かい湯はでるのだから、やはりぜいたくなのだと考えることにした。夜が深くなって強い風が吹いた。外の気温がぐんぐん下がっているようだったが、ベッドの頭のすぐ上にスチー ム管があるので、頭部だけは十分すぎるほど暖かだった。翌朝7時半、ちょっとむくんだ顔をしてロビーに集合した。
◆いっちょうらで検診に
今日からエコー診断の舞台となるバルーンオルト・ソーム総合病院は、タンサグホテルから歩いて3分の距離にある。途中、通勤の大人や通学の小学生と行き交った。
朝食はホテルではなく、病院の食堂でとった。トマトサラダとチーズ、自家製のパン、それにモンゴルのミルクティー・スーティーツァイ。熱いホットコーヒーで目が覚めた気がした。診察室に近い廊下には、すでに100人ほどの親子がひしめくようにして順番をまっていた。早い人は6時前からきているという。2日間の検診の初日は遠方の人が対象だ。つまり遊牧民が多いはず。 予定より少し早い午前8時45分から問診が始まった。1歳5か月の女の子が母親に抱かれ、田村真通医師(秋田赤十字病院)の前に座った。母親は長い脚にぴったりしたジーンズをはき、オレンジ色のカーディガンにピアスをしている。女の子はバーバリチェックのスカート。親子ともさっぱりした服装をしている が、母親は浅黒く仕事焼けしていて、都会暮らしの人でないことが一目でわかる。問診の部屋に次々と入ってくる親子は、たいがい小ぎれいな 服装をしている。きっとイッチョウラなのだろう、などと勝手な推測をしてみた。 この病院でただ一人の小児科・ダリツレン医師が、この子の病状を説明した。モンゴル語を、HSPのメンバー、ウルカさんが田村医師に日本語で伝え、田村医師の質問を患者の親に話して返事を聞く。ウルカさんは研修生として埼玉県などに滞在していたことがあり、流ちょうな日本語を話す。立派な体格で、チンギス・ハーンの武将役を演じたら似合いそうな面構えでもあるが、本業はモンゴル国外務省の職員。休暇をとってのボランティア参加だ。2年前の地方検診の際、貯金をはたいて検診活動にかかる費用のスポンサーになったこともある。根っからのボランティア・スピリットの持ち主だ。
カルテに必要事項を書き入れるのもウルカさんの仕事だ。覗きこむとキリル文字が几帳面に並んでいる。キリル文字を一文字も解さない私だが、この文字の連続になにか美しさを感じた。文字の流麗さとウルカさんの相貌との組み合わせに、失礼ながら意外性も感じてしまった。
◆聴診のやさしいまなざし
「顔が赤くなる。風邪をひきやすい」が、この患者の訴えだ。ダリツレン医師は肺動脈狭窄(PS)の疑いがあるとみていた。田村医師が聴診器を当てると女の子は激しく泣き出した。やがて「スクリーニング、エコー」と告げた。心臓超音波検査機(エコー装置)で診断するという意味だ。続いて若手の渡邊達医師(新潟大学医歯学総合病院)が血中酸素を測ろうとするが、女の子は泣きやまない。なかなか測ることができず、ちょっと苦労する。血中酸素量は、これらの病気の診断に是非必要な検査なのだ。 赤ちゃんを診るとき、田村医師は踵とくるぶしの間あたりで脈をとった。私にとっては初めて見る光景。いかにも小児科医らしいと感じる。聴診 のときは思いっきり目線をさげて、子どもの顔を覗き込むことがある。その目がなんとも優しかった。
通訳のウルカさんが、エコー検診班からよばれて部屋を出ていった。通訳は何人でも必要だが、今回はHSPのモンゴル側受け入れ団体であるNPO法人ズルフハマガーラフトゥスル(通称HSPモンゴリア)からはウルカさんとバドさんの二人しかきていない。代役をかってでたのは、今回の検診のスポンサーであるローラさんだった。日本語⇔モンゴル語の通訳がいなくなり、田村医師は ローラさんに英語で質問を伝え、ローラさんがモンゴル語で患者と会話して、医師に英語で返す。そんなやりとりになった。「この子、怒りやすいんです」と訴える親が何人もいた。モンゴルには昔から「心臓が悪い子は怒りやすい」と いう言い伝えがある。だから、かんしゃく持ちの子の親は、心臓が悪いのではないかと病院へいく。モンゴルの医師に「心臓は悪くない」とい われても納得せず、「日本のドクターに診てもらいたい」とやってくるのだ。こういうケースはたいがい「問題なし」。だが念のためエコー 装置でも診ることになる。
◆日本人医師の技に期待が
検診の核心はこのエコー装置による診察だ。HSPの エコー装置と病院の「装置」の計2台を小澤医師と山本英一医師(愛媛県立中央病院)が担当し、渡邊医師が補助する。「勉強になります」と渡邊医師。小さな診察台に、3歳6か月の男の子が両手を大の字にして横たわった。小澤医師がプローブ(探触子)の先端に潤滑剤を塗って胸にあてて動かす。ディスプレーの画面にサーと雲のような、雨のような画像が映り、移動する。心臓が映っているらしい。 循環器科のムンフツェツェルグ医師が「この子は心室中隔欠損症(VSD) だと思うけれど、この先どう対処したらいいか・・・」と話す。小澤医師の右手が、子どもの胸の上をゆっくりと動き、画面が変わっていく。 私にも説明してくれるのだが、どこが心臓でどこが血管かさっぱりわからない。「たしかにVSD。 穴は開いているけれど、閉じかかっているので心配ない。この子、元気でしょ?」と聞くと、「はい、元気です。でも風邪をひきやすいんです」と母親。「手術は必要ない。けれど、この病院で年に2回 ぐらい診てもらった方がいい」母親にほっとした表情が浮かんだ。
それにしても、素人目にはすごく“不鮮明”と見える画像で、どうしてそこまでわかるのか不思議だ。それが技というものなのだろう。患者ばかりでなくモンゴル人医師もまた日本人医師の技に期待していることが、質問や動作の端々から感じられた。
◆モンゴルには我慢強い子どもが多い
数十キロ離れた村から来たという親子は、もとは遊牧民。いまは定住集落に住み、父親は季節労働をしていて、 いまは職がないと話した。「以前この病院で、心臓に穴が開いているといわれてびっくりした。でも、日本の先生から『手術しないでも大丈夫』といわれて安心した」と軽い足取りで部屋をでていった。この子は、終始声をたてなかった。「我慢強い子だ」と小澤医師がつぶやいた。かつてモンゴルにはこのような子がおおかったという。渡航治療6回目の山本医師によると、最近泣いて暴れる子がだんだん多くなったそうだ。ちなみに日本では、泣く子がほとんどだとか。「しつけの問題かな。モンゴルもだんだん日本みたいになってきたのかも」と山本医師。
◆difficult, urgent
生後10か月の女の子。小澤医師は、左手でエコー装置のボードを操作し、 右手は小さな胸にプローブをあてつつ映像をじっと見る。母親は赤ちゃんの顔のまえで紙の切れ端をしきりに動かしている。モンゴル流のあやし方のようだ。けれども、赤ちゃんはますます激しく泣くばかり。泣き声にはおかまいなしに、小澤医師のプローブがのたうつ胸にぴったり吸いついたように離れない。なかなか終わらないのは、なにか気になる問題があるからか。
母親がたまりかねたようにおっぱいを飲ませ、ようやく泣き止んだ。「薬を飲んだ方がいい。利尿剤は追加。少し難しいよ。手術は早いほうがいい」カルテをのぞくと、difficult(難しい) urgent(緊急) の 2文字が目に入ってきた。 山本医師のところにも重たい子がきた。1歳10か月の女の子で、心室中隔欠損症(VSD)。 母親は「すぐに風邪をひく。肺炎にもなった」と話すが、実はもっと深刻そうだ。ウランバートルの病院で手術をしてもらったのが、その後がうまくいっていないらしい。「こういうケースが結構あるんです」と山本医師。 手術をやり直すのがベストだが、難度は高い。日本チームは、モンゴルでは開胸手術はしない。日本での手術は、モンゴル人にとって は巨額な費用が必要となる。韓国とアメリカからも心臓病を治すチームがときどきモンゴルを訪れていた。少人数で短期滞在型の韓国チームは韓国内で手術をするルートをもっていた。この場合、それに頼るしかないが、人数がきわめて限定されている。アメリカチームも同様だ。重症の子どもをもつモンゴルの親たちにとっては、選択はきわめて狭く限られているのが現実だ。
◆心室中隔欠損症が多い
エコー装置で診断されるのは、先天性心臓疾患の心室中隔欠損症(VSD)、 心房中隔欠損症(ASD)、動脈管開存(PDA)、 肺動脈狭窄(PS)などだ。 VSDはもっとも多くみつかる。生まれつき左心室と右心室の間の壁に穴が開いている。1歳までに半数は自然に埋まってしまうが、穴が埋まらず、大きければ手術が必要になる。穴が大きな場合、新生児は体重増加がよくなく、ちょっとした風邪で命取りになることもある。日本では、適切な年齢になると手術をするため、大きくなってこの疾患をかかえている子はかなり珍しいが、モンゴルではそのまま育って、手術もできない“手遅れ状態”の青年がときおりいる。 ASDは、左心房と右心房の間に穴のある疾患で、VSDと同じような状況にあるが、症状はもっとマイルドだ。ともに女の子に多く発症するといわれる。モンゴルの高地にはなぜか動脈管開存(PDA)などの先天性心臓疾患の子どもが多いようだ、との指摘もある。 渡航医療チームの団長・羽根田紀幸HSP理事長(島根大学医学部臨床教授)は「あくまで私の個人的、経験的な見方だが、標高の高さが関係あるのではないかと感じている。ペルーで、同じような傾向があるとの報告もある。標高が高いと空気がうすい。そのことが、もしかすると新生児の心臓が順調に発育しないことと関連があるかもしれない」とみている。モンゴルではいまのところ、広範で詳細な実態調査はほとんどされていない。
◆聴診でもわかる
日本の医師たちは、エコー検査はもちろんだが、聴診器であらかた見当をつけてしまう。今回問診を担当した田村医師も、問診レベルでの参考意見として病名をカルテにメモしていたが、短時間の聴診にもかかわらず的中率は高かった。 聴診器でどうしてわかるのかと、質問してみた。 心室中隔欠損症(VSD)の場合、穴が大きいと聞こえる雑音は低く、穴が小さいと高い音。音が小さいと穴は小さい。雑音の聞こえる場 所、音の質と大きさで聞きわける――などの答えが返ってきた。山本医師が私に聴診器を貸してくれ、先端を自分の手にあてよという。そして、山本医師の指先が私の手の甲をなでると、ザザーッと異様な音が 耳に響いてきて、びっくり。「これに近い音ですよ」に、おもわず「なるほど。すごい」。ちょっとだけ想像力が広がったような気がした。 エコー装置のない時代、医者は聴診器で疾患を診断した。そのスキルは依然生きている。「でも、短時間でたくさん診るとなると、やはりエコー 装置しかない」とも。エコー装置の時代になって、それはそれで訓練と経験が必要なのだ。モンゴルにはしかし、機材はあっても、確かな医療 技術をもつ医師が圧倒的に少ないという現実がある。
◆冬枯れの草原に浮かぶ町
午後9時過ぎ、誰もがへとへとになって病院をでた。すると、何かが焦げるようなにおいが町中に立ち込めていた。のどが痛くなるほど濃いにおいだった。町の周りに広がる草原の枯れ草が自然発火し、何日も燃え続けているのだという。なにもかも枯れてみえる草原でも、牛や羊などには食べられるものがいくらかはある。街道から見た馬や山羊は茶色い大地を前足でかいては、懸命に何かを探し、口を 動かしていた。厳しい冬を越し、どの馬も牛も皮があばら骨にはりついて見えるほどやせていた。その命の綱の餌が焼けてしまう。草原は遊牧民の生活の場だが、ときには自然現象が生業を圧迫することもある。今日の患者家族らは焼けた草原からもやってきたのだろう。においは翌朝もまだ町を覆い尽くしていた。この町は草の海に浮かんでいる小島のようなもの。そんな現実をにおいが教えてくれるようだった。
(続く) (にしじま・ひろよし)