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医療チーム同行記 第7回

2016年4月1日

ー心臓病の子どもを治したいー 500例記念のパーティー

文・写真  西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)

◆TVと新聞のインタビュー 

国立母子保健センター(母子センター)の病棟にカテーテル手術を受けた子どもが日ごとに増えた。カテーテル手術500例を達成した、その翌朝の回診。聴診とエコー検査の後、羽根田紀幸・HSP理事長(島根大学医学部臨床教授)は、患者の子どもたちひとりひとりに小さな折鶴を手渡した。「元気になってよかったね」と笑顔を添えた。鶴は羽根田医師の地元、出雲の“HSP応援団”がモンゴルの子らの回復を願って折ったものだ。回診の後、モンゴルのテレビ局と新聞社からHSPにインタビューがあった。

羽根田団長と富田英・HSP副理事長(昭和大学横浜市北部病院循環器センター長)に、エキゾチックな顔立ちの女性インタビュアーがマイクを差し出した。「どんな治療活動をしているのですか?」

羽根田医師は淡々と答える。「モンゴルの先天性心臓病の子どもを、ひとりでも多く治したいと、2001年から渡航治療を始めました。地方での検診とウランバートルでの治療が2本の柱で、地方検診は今年の秋で、すべての県を回ることになります。カテーテル治療をするのは、主に動脈管開存症と肺動脈弁狭窄症。診断しても、なかには残念ながらここでは治療できない病気の子もいます。活動がだんだん理解されてきたと思うが、依然地方には手遅れの人がたくさんいます」活動の基本事実の確認とでもいうような内容だった。現地のマスコミにも、まだまだ活動のイロハから話さないとならないのが実情のようだ。

「医療チームについて、教えてください」との質問には、富田医師が答えた。「羽根田理事長が活動を始め、日本の学会で発表したところ、参加したいという医師が日本全国から集まりだしたのです。私もその一人で、翌年から参加した。医者の間でだんだん認知され、日本の高い技術を伝えたいと参加する人も増えてきました」

「モンゴルの医療機関では、発見できないのですか?」と、モンゴルの医療の水準についての質問には・・・。「ウランバートルの病院でわかる病気はあるが、地方では発見する機会がなかなかない。カテーテル治療の技術、道具類、カテ手術の場所、教育システムなど、インフラもまだまだ。技術を伝えるなかで、モンゴル国内でシステムを作るつもりで活動しています」

「15年間で500人もの子どもに健康と未来を与えてくださった日本の先生方に、感謝の気持ちでいっぱいです」と、インタビュアーは締めくくった。モンゴル国民を代弁するようなあいさつだった。

つづいてモンゴルの新聞・アルトチラル紙記者の取材があった。モンゴルの医師、医療について聞かれ、羽根田医師が答えた。「とりわけこの病気の診断・治療には、チームワークが必要。モンゴルの医師は、個人能力はすごくあると思うが、みんなで助け合って伸びていこうという姿勢が、私たちから見るとまだ少ない。医師たちの技術はかなり高まったけれど、私たちの目で見て確実なレベルになってほしいと願っています」と、モンゴル医師の自立問題に触れた。

羽根田医師(右)と富田医師にインタビューするモンゴルのテレビ局スタッフ

羽根田医師(右)と富田医師にインタビューするモンゴルのテレビ局スタッフ

バルーンオルトの病院でのカンファレンス。右側はモンゴル医師

バルーンオルトの病院でのカンファレンス。右側はモンゴル医師

日本医師とモンゴル医師(右)が一緒にカテーテル手術を行う

日本医師とモンゴル医師(右)が一緒にカテーテル手術を行う

 

 

 

 

祝賀パーティー 

HSP渡航医療チームが、モンゴルの先天性心臓病の子どものカテーテル手術を始めてから15年、2015年の春の渡航で500例を記録したことを記念して、パーティーが開かれた。渡航チームのメンバーは全員、スーツやドレスに着替えて市内の宴会場にでかけた。パーティーのためにかさばる荷物を日本から持ってきたのだった。費用の大半は、渡航メンバーが1人5000円をだしてまかない、一部はHSPモンゴリアが負担した。パーティーをしよう!――と言いだしたのは羽根田理事長だった。メンバーには「パーティー費用は、日本での寄付からは出せない。またモンゴル人にも負担させたくない」というような思いが共有されているようだった。

日本とモンゴルの医師と医療関係者、ボランティアのほか、招待者として元患者、スポンサー、モンゴル国厚生大臣、国会議員など約100人がテーブルにわかれてすわった。司会はモンゴル語で、進行はモンゴル流だ。モンゴルの現代ミュージックのような楽曲が大きな音量で常に流れている。司会者がなにか話し続けるが、こちらのテーブルではほとんど意味がわからない。わからないながら、なにか目出度い雰囲気は十分伝わってきた。

子どもの笑顔を見るとまた来る気に・・・ 

音楽がやんで、医療チーム団長の羽根田HSP理事長があいさつした「私が島根大学でモンゴルの女性医師、エンザイハンさんと出会わなければ、この活動はなかった。最初にモンゴルにきた2001年10月のことを、今でもはっきりと覚えている。母子センターにカテーテル手術室はなかった。仕方なく一室を応急のカテ室に仕立てて、カテ手術をしました。なんとかなったけれど、今から考えるとかなりリスクの高いことをしたと思う。その15年前と今日を比べるとまったく隔世の感があります。まるで違う国に来たような気さえする。今回カテ手術500例を達成したが、母子センターでの本格的な治療はこれからです。うまくいくように、もうしばらく渡航治療を続けたいと思う」

続けて謝辞。「ここまで続けてこられたのは、ほんとうにたくさんの方の支援と協力があったからです。とくに最近は宿泊が快適で、バヤンゴルホテルさんに感謝しています。いろいろな手配をしてくれるHSPモンゴリアやほかの皆さんに改めてお礼を申し上げます。日本の仲間たちに恵まれたのも、続けることができた大きな理由です」

いきさつを幾分聞いている私には、うなずくことができる言葉であった。活動を始めた当時、病院の施設が現在よりも貧しかったことのほかに、渡航チームの宿泊環境もよろしくなかったと聞いている。医療関係者の個人宅やその知人宅でのホームステイがしばらく続き、自炊を余儀なくされたメンバーもいた。検診・治療活動が終わると、食品を買い、炊事をしたという。不自由・不便をものともせず、活動は続けられた。それが2009年から、ウランバートルでは格が高いといわれる老舗のバヤンゴルホテルに泊まれるようになり、格段に活動が楽になった。それは、この活動を側面支援している現・駐日モンゴル国大使のフレルバートルさんの口利きで、当時のホテル経営者バットウルガさんが一肌脱いだからだった。「日本の医療チームに無料で泊まってもらう」という形で活動を支援している。経営者が代わった現在も、メンバーの宿泊費の合計が年間120万円まで無料。同ホテルの従業員の家族の検診もすることもあり、その多くがHSPの活動を理解しているという、いわばホテルぐるみの支援体制があるのだ。

スピーチの最後で、羽根田団長は一段と声を高くした。「ですが…。一番の原動力は、モンゴルの子どもたちが元気になって帰っていくときの笑顔です。あの笑顔を見ると、どんなに忙しくても、『また来よう』という気になるのです」一言にすべてが込められているような余韻を残すスピーチだった。会場からひときわ大きな拍手がわき、日本人医師のテーブルでは、そうだと小さくうなずく顔が。

今や日モ両国を通じて最大の支援者であるバヤンゴルホテルに対して、HSPから感謝状が贈られた。

「一番の原動力は子どもの笑顔」とスピーチする羽根田医師

「一番の原動力は子どもの笑顔」とスピーチする羽根田医師

バヤンゴルホテルの玄関前

バヤンゴルホテルの玄関前

 

 

 

 

日本人として誇りにおもう 

清水武則・在モンゴル特命全権日本大使が挨拶にたった。

「HSPの活動が15年間続いていることを、日本人としてたいへん誇りに思います。人の命を救うことほど崇高な仕事はありません。500例の手術ということは、一朝一夕にできることではなく、長い間のたくさんの医師の努力の結晶です。日本の技術が着実にモンゴルの先生方に根付いていることも大きな成果です。日本大使館はHSPの活動を全面的に支援し、3年前に日本の外務大臣賞に推薦しました。これからも、受け入れ側のモンゴルの先生やバヤンゴルホテル、スポンサーの協力は不可欠です。日本の先生方、スポンサーの方々に心から感謝の意を表します」

HSPの活動を評価しているのは、モンゴルの国と国民だけではない。日本の外務省もまたこの活動を評価し、HSPは2013年7月、外務大臣表彰を受けた。ただ、国内での報道は、扱いがきわめて地味だった。

モンゴルの民族楽器、馬頭琴の演奏が続いた。ウランバートルの音楽学校の生徒の合奏だ。モンゴルの伝統的な曲のほかに、日本の歌曲「花は咲く」も演奏された。馬頭琴はモンゴルの人々と暮らしを象徴する楽器で、こうした国際パーティーには必ず演奏される。モンゴルには馬頭琴の由来が説かれている民話がいくつもあり。そのひとつ『スーホの白い馬』は日本でも小学校教科書に載り、絵本にもなっている。「馬頭琴」の名前を知っている人は少なくないだろう。では、どんな音色がするのか。生の演奏を聴いた日本人は多くはないだろう。二本の弦が生み出す響きは、ヴァイオリンとチェロの間のような音域がある。広大無辺な草原を思いはせるような、ゆったりとしてどこか哀愁のある音色と表現する人もいる。若者の熱演に、大きな拍手が沸いた。渡航チームのなかには、馬頭琴の演奏をはじめて聴いたという医師もいた。

モンゴル側から次々と、謝辞が返された。「親として、いちばんつらいのは、我が子が病気になること。子どもが病気になると、心が痛くなって、どうしようもなくなる。そんなときに、日本の先生がきて子どもたちを救ってくれました。深くお礼を申し上げます」と話したのは、国会議員の一人だった。

モンゴル国厚生省から、HSPの活動に積極的に参加している医師に大臣賞が贈られた。「保健分野の優秀な人材」という名の章だ。今回表彰されたのは、内山敬達医師(大阪・高槻病院)と藤井園子医師(愛媛大学)、それに母子センターのウンドラル医師。それぞれが勲章の入った箱を受け取った。

「これからも活躍を期待します。厚生省としてできるだけのことをしたい」とのスピーチがあった。二人がテーブルに帰ると、チームのメンバーが「乾杯」を連発。「おれは話題提供だよ」とてれまくる内山医師に、トーヤさんが「もらうべき人がもらうのですよ。二人とも、もう何度もきているのだから」。両医師は、渡航医療にこれまで7回参加しているベテランだ。藤井医師は、医療チームの麻酔科医としては初めての受章だ。

これで、HSPのメンバー計9人が同賞を受けたことになる。外国人が受ける顕彰としては、とくに格が高いものとして北極星勲章がある。これを、羽根田理事長のほか、富田英副理事長、檜垣高史理事(愛媛大学教授)が順次受章している。また、2012年には、日モの友好に寄与したとしてナイラムダル友好勲章を、片岡功一医師(自治医科大学とちぎ子ども医療センター)ら8人が受章した。

馬頭琴の演奏

馬頭琴の演奏

厚生省の担当者から勲章を受け取る3人

厚生省の担当者から勲章を受け取る3人

保健分野の優秀な人材章を受けた内山医師(左)と藤井医師

保健分野の優秀な人材章を受けた内山医師 (左)と藤井医師

パーティー会場

パーティー会場

 

 

 

 

 

 

 

 

大きくなったら、お医者さんになりたい 

宴がもっとも盛り上がったのは、HSPに治療してもらい、元気になった子どもたちの登場だった。男女5人が登壇した。

ハタンガラフトちゃん(8)は、モンゴルではめずらしい英語のスピーチだった。モンゴルの子が幸せで健康であるようにと、はるばる来てくださる日本の先生方、ありがとう――このことを言うために、ここにきました。子どもたちが元気だと、この世界をもっとよくすることができます。私はこの世界をもっとハッピーにしたいです。そのために、大きくなったら絵を描く人になりたいです」と語った。手術によって、夢を持てる子になった、ということなのだろう。

ハタンガラフトちゃんの母親は、じつは、この連載の第1回から登場している。スフバートル県バルーンオルトでの検診のスポンサーになったローラさんだ。

壇上から降り、席に着いた元患者に聞いた。モンゴル西部。ザブハン県の遊牧民出身のサランゲルさんは20歳になっている。健康そうでかわいらしい顔立ちがひときわ目をひいた。幼いころから重度の動脈管開存症(PDA)だった。7歳のときカテーテル手術の予定があったが、怖くてやめたという。当時のモンゴルの医療に、親は不信感があったのかもしれない。症状は次第に悪化した。「体が衰え、歩くのすらやっとになり、よく鼻血が出た。どうして私はこんななのだろうと、将来を悲観していました」という。

そんな中、昨年5月にザブハン県を訪れたHSPの診断を受け、3か月後にHSPの新たなチームがカテ手術を成功させた。「そのとき、“世界一太い動脈管”だったと先生にいわれたのを覚えています。今は、楽に歩けるし、鼻血もでません。何より、将来に希望が持てるようになったのがうれしい。今、故郷の町の専門学校で経済学を勉強していて、将来、役所か銀行に勤めたい。日本のドクターには、ものすごく感謝しています」と明るい表情で話した。

当時の日本チームに、いま会場にいる山本英一医師(愛媛県立中央病院)がいたという。そのことを山本医師に話すと、顔をくちゃくちゃにしてしまった。

ウランバートルで自営業を営むウスフさん(35)は8年前、出産後の検査で、娘・コランちゃんの心臓に異常があることを知らされた。「長く泣くと、顔色が青くなり息が十分にできないようだった。同い年の子に家に来てもらって遊ばせたが、5分もつづかなかった。母子センターでは治せないというし、海外での手術はお金がとてもかかる。子どもがかわいそうでならないのに、自分自身はいつもイライラしていた。そんな6年前、日本の医療チームがきたので、手術してもらったのです。すごくうれしかった」

この日、コランちゃんはモンゴルの民族衣装に着飾ってパーティーにやってきた。さまざまな立場の人のスピーチが続く中で、コランちゃんはひとつの決意をしたと、私に話してくれた。「私、今日、将来の仕事を決めました。お医者さんになりたい。みんながとても喜んでいるのがわかったの」コランちゃんのこの決意を日本の医師たちに話したところ、「こんなうれしいことはない」と、どの医師も同じことを言った。

祝電の披露で、モンゴル出身の横綱日馬富士関からの祝辞が朗読された。日馬富士関は、HSPの活動の長年のよき理解者だ。昨年12月に銀座で開いた絵の個展では、売れた絵の代金の一部をHSPに寄付することになっているという。また、地方巡業に行くと、地方の首長に機会あるごとに、救急車を更新する際、いらなくなった救急車をモンゴルに寄付してほしいと訴え続けてきた。これまでに25台の寄付が実現している。今年(2016年)2月にも、『横綱日馬富士が救急車寄贈を仲介「命救いたい」とモンゴルの病院へ』との記事が福井新聞に掲載された。鯖江・丹生消防組合が更新対象の救急車1台を贈り、アルハンガイ県で使われるという。

やがてモンゴル人バンドによる現代ミュージックの演奏となった。シンセサイザー、ギター、ドラムのビートに合わせ、元患者、日本とモンゴルの医師たち、支援者が踊りはじめた。医療の達人たちも、カテーテル手術室での厳しい表情とはうってかわって、和らいだ顔つきでステップを踏んでいた。

HSPチームによって健康を取り戻した子どもたちが感謝のあいさつ

HSPチームによって健康を取り戻した子どもたちが感謝のあいさつ

山本医師と元気になったサランゲルさん

山本医師と元気になったサランゲルさん

「羽根田先生に直してもらったの」とハタンガラフトちゃんと母親のローラさん

「羽根田先生に直してもらったの」とハタンガラフトちゃんと母親のローラさん

モンゴルバンドの演奏でダンス

モンゴルバンドの演奏でダンス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モンゴルの医療状況 

◇バヤルマー医師

HSPのボランティア医療活動を、モンゴルの医師たちはどのように考えているのか、紹介したい。モンゴルの母子保健。医療の中心である母子センターは、小児科と産科系の16科あり、小児循環器科には23のベッドと6人の医師、16人の看護師がいる。

まず、若手女性医師バヤルマーさんに聞いた。研修医のときに日本の医療チームの活動を目の当たりにして、小児科医になる決心をしたという。「私は小さいときは、すぐ病気になる子でした。病院にいくと、多くの子どもが亡くなる場面を見てきました。それで医師をめざしたのです。日本チームの地方検診に、最初についていったとき、エコー装置の画面を見てもなんだか全然わからなかった。でも、うしろからずっと見ているうちに、だんだんわかるようになり、2011年から自分でも検診をできるようになった。日本の先生は、教えたいという気持ちがつよくあって、なんでも説明してくれる。私のカテーテル技術も上達している気がします。日本の医師は一日に何十人診ようと、最後のひとりまで診ようとする。その姿勢自体がとても勉強になります。富田先生は、みかけは怖いけれど、話をしたらやさしい人だとわかった。勇気があって、その時々での判断がすごく確かだと感じます。私は、いつか富田先生のような医師になりたいです。それと全国に子どもの病院がいくつもできるのが願いです」

◇バトウンダラハ医師

「小児循環器科で3年目です。検診には2回、3県に行きまた。日本のドクターは、みんなやさしくて人間関係がよく、何かを教えようとする気持ちが伝わってきます。HSPが来るたび、とても勉強になります。モンゴルチームもみんなでやれるように頑張っています。僕も自分でカテーテル手術ができ、全体を一人で診られる医師になりたい。たくさん勉強しなくては。HSPがもっときてくれると、ありがたいです」

◇小児科部長のボロルマ医師

「HSPが寄付金を集めて、モンゴルにきていることを知っています。日本人のお蔭で、モンゴルの子どもがよくなっていると理解しています。2001年に羽根田先生、黒江先生がきた当時、カテーテル治療はモンゴルにはなく、私たちもなかなか理解できなかった。HSPがだんだん拡大して、私たちの知識も増えた。日本の医師はみんな深い経験があり、海外の学会で会っても、いろいろなことを教えてくれる。2014年9月に設置された最新のカテーテル装置については、4か月間研修をしてきました。日本チームがくるまでに、31人の患者にカテを行い、14人を韓国チームが治療、17人はカテーテル診断でした。使いこなせていると思います。ただ、国からカテーテル手術の機械は買ってもらったけれど、患者に使うデバイスを買うのが大きな負担です。ここの医師も診断と治療のカテをしているが、まだまだ力が足りません。私の望みは、やがて母子センターの医師だけで治療できるようになることです。モンゴルの医師が日本に行って、助け合ってうまくやっていけたらいいと思います」

渡航医療の開始から15年、HSPはモンゴルの小児医療の世界に大きなインパクトを与え、モンゴルの子どもの先天性心臓病の医療は大きく変わった。それにともない、モンゴル医療関係者の意識も次第に変化してきているようだ。では、日本の医師はなぜモンゴルへ行くのか、次回はそれに触れたい。

インタビューに答えるバヤルマー医師

インタビューに答えるバヤルマー医師

地方検診にも行ったバドウンダラハ医師

地方検診にも行ったバドウンダラハ医師

カテ手術成功で握手するボロルマ医師(中央)

カテ手術成功で握手するボロルマ医師(中央)

 

 

 

 

(続く)(にしじま・ひろよし)