医療チーム同行記 第9回(最終回)
2016年5月1日
ー心臓病の子どもを治したいー 番外編・モンゴルはいま
文・写真 西嶋大美(ジャーナリスト・元読売新聞記者)
◆銅と石炭の輸出で経済発展
ハートセービングプロジェクト渡航医療チームに同行してモンゴルへいって、ほぼ1年たつ。今年(2016年)も医療チームが渡航するころとなった。モンゴル高原の大地も空も冬から夏へと支度をすすめるころ。草原に若草はまだまだ萌えていないだろう。昨年同じころ、ウランバートルから日本への帰路、モンゴル航空機が離陸して間もなく、ラクダ色の草原に黒色の区画がいくつも見えた。主に直線と緩い曲線で描かれた巨大なアブストラクト画は、いささかこの大地に不似合な印象があった。無法則で恣意的な“画”は、草原の土をひっくり返したものであろうことは、高いところからも想像できた。それは、モンゴルが国をあげて猛進している近代化を象徴する刻印のようにも思われた。馬や羊とともに暮らしてきた遊牧の民であるモンゴル民族は、土をほじくり返すことをなにより嫌ったといわれる。命をはぐくむ草原が損なわれ、場合によってはゴビ(土漠)化するからだ。司馬遼太郎は「農業をやれば民族が滅亡するかもしれないという潜在的恐怖心が強かった」(『街道をゆく5モンゴル紀行』)とさえ書いている。それが今、草原のあちらこちらで土がめくられている。
草原の国のイメージが強いモンゴルは、いまや草原の遊牧によって経済が成り立っている国ではない。国内総生産(GDP)の約3分の1を鉱工業が占め、輸出の9割近くを担っている。世界有数の埋蔵量を誇る銅鉱山と炭鉱がゴビ砂漠の南部にあり、銅と石炭のほか、金、銀、モリブデンなどが掘られている。農牧業はGDPの14%にすぎず、鉱工業が経済発展の圧倒的なけん引力となっているのだ。経済協力開発機構(OECD)によれば、モンゴルの経済成長率は、2011年は17.29%で、なんと世界第2位(1位という計算もある)だ。その後、輸出の90%以上を占める中国の経済に陰りが見えた影響で、成長はスローダウンした。さらに中心的な鉱山が多くの問題を抱えているといわれるものの、2014年の経済成長率7.76%(同8位)と依然高い水準にある国なのだ。モンゴルには各種の鉱床が6000ほどあるとされ、一部が採掘されつつある。この連載の第2回から書いたスフバートル県での地方検診にゆく途中、石炭の野天掘りででたボタ山がいくつも遠望された。ボタ山は日本のそれとは違って、頂上を平らにした台地状をなしていた。石炭を積んだ貨車を何十両も引っ張る列車にもしばしばであった。
高度成長の中で、あっという間に富裕層になった人もいる。モンゴルの旧知は、国から金の採掘権を得て掘ったところ、見事に当たって富裕層の仲間入りをした。今回直接会う機会は得られなかったが、そういう情報が聞こえてきた。確かであろうと思う。15年前、私は家族とウランバートルから車で数時間の観光用ゲルに1週間ほど滞在したことがあった。遊牧民の彼は兵役が終わったあと、そこでアルバイトをしており、私たちは馬の乗り方を教わった。当時小学生の息子はよく遊んでもらい、一緒にタルバガン(野生の大型マーモット)を捕獲した。ナイフ一丁で、生きた羊を解体し、大地に血を一滴もこぼさなかった見事な技が目に焼き付いている。話をもとに戻す。要するに現在のモンゴルは、さまざまなチャンスが誰の足元にあり、首都の道には日本車があふれ、高級車も多く走る国となっていることを言いたかった。
◆高級マンション建設ブーム
ウランバートルには富裕層が好む地域があり、そこに高級マションが続々と建設されている。検診とカテーテル取材の合間に、モンゴルの友人に案内してもらった。アンゲルさんという。15年前のゲル滞在のとき、つきっきりで通訳を務めてくれた。今ではSEDMON TOURという小さな旅行会社を経営している。成功組といってもよいだろう。
ウランバートルの旧市街の南限は、東西に走る鉄道線路だ。アンゲルさんの車で陸橋を南に渡る。「ここから、中流のマンションが建つところ。南にゆくほど高級になる」とアンゲルさん。建築ブームは少し衰えたというが、建設中のマンションがいくつもありクレーンが動いていた。さらに南に走れば、トゥーラ川を渡り丘となって市街は尽きるが、橋の南側は高級度が一段と増すのだそうだ。中には日本円に換算して「億ション」もあるという。私は、その説明に声もでない。直前に貧困な生活区域を見て回ってきたばかりだから。
道は丘で突き当り、右は西方への街道、左にゆけばモンゴルの東方地域へとつづく。超富裕層がとりわけ好む地域は、この川と丘の間の比較的狭い市域だという。アンゲルさんは自分でも鉄道と川の間の地域に中級マンションを買いたいと調べているから、最近の情勢に敏感なのだ。突き当たった丘には、第二次大戦でモンゴルとソ連が、大日本帝国とナチスドイツに勝利した記念碑が建てられている。ザイサン・トルゴイだ。長い石段を上ると、北の方向にウランバートルの街が一望することができる。この日は風が強く空気が透明で、遠くまで見渡すことができた。中高層ビルが10年前の二度目のモンゴル訪問時より格段に増えて別の町のようであり、ほぼ正面にあるはずのチンギス・ハーン広場は見えない。そして、ビル群を超えて市街の北のはずれの丘には、小さな点粒をばらまいたような「ゲル村」が目に入ってきた。ザイサン・トルゴイの丘の麓に目を戻すと、高級マンションが何棟も建設中だった。この地域は、冬季に大気が汚染される時期に風の流れなどから汚染度が比較的ましなのだという。むろんこの辺りにゲルは認められていない。戦勝記念の丘は貧富の格差をいやおうなしに印象づけられる場でもある。
再びトゥーラ川を北にわたり返し、アンゲルさんが注目している建設中のマンションをのぞかせてもらった。4棟の15階建てのマンションは、2階まではひとつのビルで駐車場になっている。「モンゴルの冬は零下30度以下になって、車が傷むので、みんな屋内の駐車場をほしがる」という。駐車場はゆったりと通路がとられ、駐車スペースもランクルクラスが楽に駐車できるようにと広めだ。完成棟の住人の車がすでに何台か駐車してあった。駐車場の上は屋上庭園で、植樹されていた。「ここで子ども遊ばせておけば心配ないと、人気がある」という。市内は最近物騒になってきて、働く親は子どもが心配なのだそうだ。マンションはゆったりした間取りで、平米あたり15万から20万円とモンゴルでは決して安くはない。というより日本の地方のマンション相場にもう一歩ではないか、と驚く。モンゴルではインフレがひどく、価格が日本と変わらないものはほかにもある。全量輸入に頼るガソリンの単価は、日本よりやや高い。それでも町の中は渋滞するほど車が多くなった。モンゴルは自由化以降、インフレがひどく、この10年ほどは毎年10%前後物価が上昇している。経済成長は、たしかに国民1人あたりのGDPを格段に押し上げたが、貧富の差がどんどん広がっていることもまた事実なのだ。
◆すさまじい一極集中とゲル村の貧困
遊牧民の国モンゴルで都市が作られたのは、古くはない。ウランバートルの建設が本格化したのは1945年以降である。歴史的に中国をきらうモンゴル人は、首都をロシア風の街並みに作った。チンギス・ハーン広場に面した国立中央オペラ劇場が造られたのもそのころだ。司馬遼太郎が「私は、敗戦のときにソ連が多数の日本人を捕虜にし、シベリアからウクライナ、あるいはモンゴルにいたるまで、広大な地域で奴隷労働させたことについて、言いがたい感情をもっている。(中略)オペラ劇場の建物だけは、どうしてもまともに見る気になれないのである」(同書)と評したビルだ。モンゴル人民共和国が、史上二つ目の共産主義国家として成立したのは1924年。ウランバートルの人口はわずか11万人だった。66年後の1990年に民主化したときは55万人ほどで、それが現在は約150万人。モンゴルの全人口は約300万人だから、ほぼ半数がウランバートルという都会に住むようになり、草原で遊牧を生業とする人は人口のわずか十数パーセントまで減少したという。すさまじい一極集中だ。このトレンドは、今後も続くとみられ、いったいどこまで都市化するのか、予想もつかないという。
人口増加の原因は、就職や進学という積極的な理由は比較少数だ。多くは郊外に建てられたゲルの住人の劇的増大だ。遊牧生活を放棄し、フェルト製の折り畳み住宅であるゲルをもって、ウランバートルへやってきた人々だ。そのゲル群はゲル村とも呼ばれる。住民の中には市に登録していない人もいて確かな数字はわからないが、ゲル村の人口は首都の60%にもなるとの推定もある。ウランバートル北西部のゲル村を、アンゲルさんの案内で訪ねた。丘のふもとに沿った広い舗装道路から、いきなり斜面をのぼる未舗装のガタガタ道に入る。しばらくコンクリートや煉瓦つくりの平屋か二階建ての粗末な建物が続いた。丘の低いところからゲルが立ち、やがて恒久的住宅に建てかわっていった。そして、立地を求めて次第に丘の高いところへとゲルが立っていったことがわかる。食品や雑貨を売る小さな商店もあり、大人や子どもが坂の道を歩いていた。市の中心部へ通勤、通学する人もいる。さらに上がると、両側は板塀になった。板塀には番地が記されていた。板で囲った中にゲルが1~3個、立っている。大きな敷地はおそらく1000平方メートルもあるのではないだろうか。日本なら大邸宅のこの広さは、2003年から数次にわたって行われた土地の私有化政策の反映だ。当初ウランバートルでは1所帯700平方メートルが国家から無料配布され、のちに「1人」が同じ広さがもらえることになったのだ(地方では、配布面積はもっと広い)。それをきっかけにゲルは増え、いまも増え続けている。道は谷を望む尾根伝いになった。谷の底では、“宅地”が造成されていた。小型の油圧ショベルで斜面が削られ、ゲルを立てるための平地が広げられていた。大雨でも降ったら流されそうな立地だが、雨はめったに降らない。後から来た者は贅沢をいっていられない、ということなのかもしれない。途中の広場に貯水場があって、決まった日時に、行政が水を配給するという。この辺りまで道のわきに電信柱が建てられていた。市は電気を供給しているのだ。空地にはごみが捨てられ、異臭もした。
板塀の中に入って取材しようとした。すると、どこも必ず犬が吠えた。馬や羊をおいて、あるいはなくして草原を離れるときに、犬だけは連れてくる人が多いようだ。「遊牧民の犬は獰猛で、人を咬むようにしつけられているから、入っちゃダメ」と、アンゲルさんにきつい言葉でたしなめられた。やがて電柱もなくなった。電気もない生活。これより上は、ある意味で草原の生活とかわらない。が、市内の生活と比較をするとすれば、“貧しい”という感覚が生まれざるをえないのではないだろうか。
◆夢破れて故郷に帰る人も
やがて、丘の頂上の近くで、ゲルを解体している一家を見つけ、声をかけた。飼い主が一緒だと犬はおとなしい。夫婦はゴビアルタイ県から6年前にやってきたという。病院の清掃などの仕事をしていたが、仕事な少なくなって生活できなくなり、1300キロ離れた故郷に帰ることにしたのだという。幸い妻が看護学校を卒業したので、故郷の小さな町の病院で仕事ができる。「これからは親せきに預けた子どもと一緒に暮らせる。ウランバートルに来ればいいことがあると思ったけれど、違った。国や市はなにもしてくれなかった」と話した。遊牧をあきらめてウランバールにやってくる遊牧民はますます増える一方で、夢破れて再び草原へ戻る人もいる。モンゴルの友人は「そういう人も増えている」という。
遊牧民がウランバートルへやってくる理由で一番多いのは、ゾドの影響だと言われている。ゾドとは、異常に厳しい天候による「寒雪害」とも訳される。雪がたくさん積もると、五畜(馬、牛、羊、ヤギ、ラクダ)は深い雪をかき分けて枯草を食べることができず死ぬ。一度解けた雪が寒気の再来で固く凍りついたときも、家畜は餌を摂れなくなる。また、春季に雨が少なすぎると草の生え方が微弱で、家畜が厳しい冬を越すだけの体力をつけられない。最近では1999年から3年間ゾドがつづき、2010年にもひどいゾドがあり、モンゴルの人口より多い数百万頭の家畜が死んだという。ゾドのたびに、財産である家畜をなくした遊牧民が都市へと向かう。
◆世界一空気の汚れた首都に
かつて司馬遼太郎は1990年に、「まったくぜいたくなはなしで、ウランバートルは世界じゅうの首都のなかでいちばん空気がいいとされているのである。」とエッセイ『草原の暮らしよさ――モンゴル素描』に書いた。しかし、四半世紀後の現在、11月から2月までのウランバートルの大気汚染は、北京よりひどくなったといわれる。この冬に、モンゴルに行った日本人の友人は「隣のビルがかすむほど、毎日煙っていた。のどがひどくいたくなり、高性能のマスクが必須だった。昼間でもヘッドライトをつけて走る車もあり、飛行機の発着にも影響があった」と、汚染度のひどさを話してくれた。WHO(世界保健機関)の国際がん研究機関(IARC)は2013年10月、PM2.5やPM10(粒子状物質)などの大気汚染物質に発がん性があるとして、地域ごとに5段階のリスク評価をした。その最悪の「グループ1」に、ウランバートルは分類されたのである。これをうけて在モンゴル日本大使館は、モンゴルに滞在する日本人に対し、窓を可能な限り開けず目張りをし、不要不急の外出を避け、やむをえず外出する時は高機能のマスクをすることなど勧める通知をだした。
大気汚染の理由はいくつもあげられている。自動車の劇的増大。火力発電所の煙。地域暖房。もっとも大きな理由としてあげられているのは、ゲル村で暖房のため燃やす石炭の煙とされている。遊牧民は本来、家畜の糞(アルガリ)を乾燥させて燃料としていた。しかし、ゲル村の住民にはアルガリはない。代わりに、石炭を買って焚くのである。石炭はさほど高くはないが、お金のない家庭では廃タイヤも燃やしているらしい。ゲルが増えれば増えるほど、大気は汚れる。そんな構図になってしまっている。当局は、熱効率のよいストーブの普及などの対策に努めて多少改善したというが、根本解決にはなっていないようだ。
鉱工業を強力な牽引車として首都ウランバートルが近代都市へと相貌を変え、多くの住民の所得が次第に増える一方、やむを得ず都市に向かう遊牧民もまた増え続けて貧困化する。モンゴルは実に難しい局面にあることは、少しの滞在でも十分感じられた。このようなモンゴルの変貌を、司馬遼太郎が見たらなんというだろうか、と考えこんでしまった。とはいえ、日本の4倍の面積をもつモンゴル全体からすれば、首都の大気汚染は局地的現象である。ちょっと離れれば昔ながらの草原はほとんど変わらない。澄みきった空気になかにほのかに感じるハーブのような香り、地平線に沈む夕陽が東の空の雲まで赤く染める壮大な夕焼けや、川面に星が映るほど純度の高い自然は、依然と同じだとモンゴル人は強調する。そこには、遊牧を生業とする遊牧民が、まだ少なからずいるのだろう。ただ、最近はどこのゲルにもソーラー発電機があり、テレビで大相撲を見ることができる。多くの遊牧民が携帯電話で話をし、インターネットを駆使しているらしい。10年前にはほとんど見られなかったゲルの中のありようである。
◆モンゴルの心
モンゴルを愛してやまない日本の高官が、モンゴル財界の大物たちと懇談したときのエピソードを語ってくれた。懇談の半ば、「このままでは、モンゴルはダメになりますよ」と彼が言った言葉を、財界人たちは一笑にふした。「経済は成長している。高級車に乗れる人も多くなった。モンゴルは明らかに豊かになっている。どこが問題だというのですか」と。高官が「モンゴル人の心の問題ですよ」と答えると、全員黙り込んでしまったという。日本が明治維新以来150年かけて歩んだ近代化への道を、モンゴルはわずか20年ほどでたどろうとしている。そこには多くのチャンスがあると同時に、大きなゆがみもともなっている。何かを選ぶということは、別のなにかを捨てるということでもある。二千年以上続いてきた草原の暮らしは、市場経済をいきなり導入することによって激変しつつある。そればかりでなく、草原の遊牧生活は「遅れた」「貧しい」暮らし方という意識もまたモンゴル人の心に微妙に増殖しているようにもみられる。そして、そのことは、モンゴル人自身がとっくに気がついていることでもあるようだ。
モンゴルの“苦労”を、司馬遼太郎は25年以上前に予測していた。「かれらにとってこの世で高貴なのは馬上五畜を牧するしごとであり、騎士であり、背をまるめて物をつくることではなかった。この気風は、かれらの誇りたかい精神と、魅力ある民族像をつくる上で、大いに役立ったが、文化はさほどに残さなかった。近代というのは、言いきってしまえば商工業の世なのである。そういう点で、今後、この国はよほど苦労せねばならない。」と。そして、「おそらくうまくやるにちがいないが、一面、鎌倉武士に似たモンゴル人にそんな町人の苦労をさせたくないような気もする。」とエッセイ『馬上の精神――モンゴル素描』を結んだ。私はこの一説を読むたびに、胸が熱くなってならない。
こうしたなかで、モンゴルの医療制度も修正を重ねている。病院の運営にも市場原理の発想が持ち込まれようとしている。モンゴルでは、通常16歳までは医療費は無料だが、治療にかかる周辺諸費用、医療器材分は本人の負担とすることが検討されているという。負担は一般国民にとってはかなりの高額となり、富裕な一部の家庭の子どもしかカテーテル治療を受けられなくなる可能性もあるようだ。高度経済成長、首都への一極集中、貧富の差の拡大、大気汚染――モンゴル社会と経済は急速な変貌の中にあるが、先天性心臓病の子どもが減ったわけではないし、モンゴルの小児医療はいまだ成熟したとはいいがたいようだ。このような激流の中にあって、HSPの活動は新たな局面での対応を迫られつつ、ますます必要とされていくのではないだろうか。
(おわり)
(にしじま・ひろよし)
このシリーズのご意見・ご感想をお寄せください。トップページの「お問い合わせ」をクリックいただきますとそのままメール画面へジャンプします。みなさまの声をお待ちしております。